わたしは金正男を殺してない
【監督】ライアン·ホワイト
【制作】2020年/アメリカ
【日本公開】10月10日(土)全国順次ロードショー
【配給】ツイン
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虚構に塗れた事件を追ったドキュメンタリー
2017年2月13日午前9時。マレーシアの首都クアラルンプール国際空港で、北朝鮮の最高指導者・金正恩の異母兄である金正男が殺害される。キム・チョルという名義で入国していた彼は、一滴でも死をもたらすというVXを背後から顔に塗られ、数分のうちに息絶えた。実行犯として逮捕されたのは、インドネシア人シティ・アイシャとベトナム人ドアン・ティ・フォンという、20代の外国人女性。二人はより良い生活をしたい、有名になりたいとの願望があり、「イタズラ動画への出演を頼まれ、“人違いを装ってクリームを塗った手で通行人に触る”というイタズラをしただけだ」と供述した─。
「二人に殺人の意図があったのか、あるいは利用されたのか」と、世界で注視されたこの事件。だが、関係者への丹念な取材や公判の記録などを通し本作で映し出されたのは、真相究明とは程遠い司法の姿だった。二人の他に北朝鮮の工作員で化学の専門家と目される男も逮捕されたが、北朝鮮が人権侵害と非難し、同国に住むマレーシア人の出国を禁止したことから、マレーシア政府はやむなく男を釈放。家宅捜索を行わず、VXの出処も調べない中での釈放だった。
マレーシアは北朝鮮と友好的な関係を結ぶ数少ない国であり、波風を立てたくなかったのである。一方アイシャらは当初から「殺人の意図があった」と決めてかかられ、弁護士も正当な権利を与えられなかった。日本でも流された事件当時の監視カメラ映像の提供申請さえ長く無視され、入手に半年を要したという。
この事件はどこか奇妙で嘘臭い。“イタズラ動画撮影を模して適当な人間に殺人をさせる”という設定自体、架空の物語のようだ。そんな虚構めいた世界に取り込まれた夢見がちな二人の女性は、やがて事件の意味を知って現実に引き戻されるが、一方の裁判官や検事、あるいは北朝鮮やマレーシア政府は、彼女らの無罪を示す証拠にも素知らぬ顔で、自分たちの「役」を演じ通すのである。国のエゴと政治的判断で塗り固められた、事実も論理も通用しない世界。その無機質なまでの残酷さには、背筋がぞっとするものがあった─。