言葉の違い=思考の違い?「言語相対論」を知り異文化理解のヒントに
言語が思考に影響
バイリンガルの人が、「英語を話す時と日本語を話す時では性格が変わる」と言っているのを聞いたことがないだろうか。これは、「話者が英語モードに入っているから」という、気分の問題だけで説明できるような単純なことではないらしい。使用する言語が人の認知や思考に影響すると考える「言語相対論」という説があり、一つの学問的なテーマとして研究されている。アメリカの言語学者 E.サピアならびに B.ウォーフの著作の中にその主張がみられることから、「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれることもある。「言語相対論」は大きく強い仮説と弱い仮説に分けることができ、強い仮説の場合「言語によって思考が決まってしまう」という、やや極端な立場を取る。一方の弱い仮説では、「決定はしないが、言語が異なれば思考に影響を与える」という立場だ。一体、言語の違いがどう影響を与えるのか。いくつか例を出したほうが分かりやすいだろう。
「左右」という言語を持たない人々
オーストラリアのアボリジニのクウク・サアヨレッテ族の言語には、「右」「左」の言葉がない。あらゆる位置や方向を、「東西南北」の方角で言い表すという。例えば「今日はどちらのほうに行くの?」と尋ねれば「北北東のほうへ」と答え、「私の服はどこにある?」と聞くと「あなたの北側にあるよ」という風に答える。また、アマゾンの先住民ピダハンにも、左右、色、数などの概念が存在しないそうだ。そのため、左に進むと村長の家がある場合、「川の上流に向かって進むとある」など、外部環境と位置関係で説明するという。左右の概念が定着している言語を使う人とは方向の認識の仕方が異なるため、当然思考にも違いが出てくるだろう。そういえば筆者が子どものころ、親から「お箸を持つほうが右」(右利きなので)という定番の説明を受けて、理解できなかった覚えがある。最初に教えられた「お箸を持つほう」が玄関の側だったため、しばらく後に「右はどっち?」と再度尋ねられた時に、玄関のほうを指差した。しかし、その時は自分の位置から見ると左方向に玄関があったのである。当然「違う」と訂正されたが、さっきと同じ向きを指したにもかかわらず違うというのが、何故なのかよく分からなかった。先の2つの民族や私の幼少期の例では、ある意味で絶対的な方向だと言える。一方「左右」は、本人が少しでも体の向きを変えれば変わってしまうため、相対的な方向の捉え方だと言えそうだ。
身近な言語でも相違がある
先の例は日本語とは極端に言語が違った。ではもう少し身近な言語で、英語はどうだろうか。川端康成『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という一文。情景を思い浮かべてみてほしい。主語が明確には記されていないが、汽車に乗っている乗客の視点で、トンネルの出口あたりから雪国が広がっている景色が浮かばないだろうか。一方、川端作品の翻訳を多く手掛けたエドワード・サイデンステッカーの英訳は以下の通り。「The train came out of the long tunnel into the snow country(その列車は長いトンネルから抜けて雪国に出てきた)」。「汽車」が主語として書かれている。これらを読んだ人たちに、思い浮かべた情景を絵に描いてもらう実験では、日本語の場合は乗客視点から描いた絵だったが、英語の場合は汽車がトンネルから出てくるのを上空から眺めている絵になったという。『雪国』の例は意味自体はほぼ同じだが、微妙にニュアンスが異なる。別言語の話者同士でコミュニケーションを取ると、わずかなニュアンスの捉え方の相違などが重なり、誤解などに発展する可能性があることは想像に難くない。
言語が与える思考への影響は、決して小さなものではない。そのため異なる言語を学ぶことは、異なる文化を学ぶということにつながる。新たな思考方法を獲得するために、母国語とは違った言語体系を学ぶことも面白いだろう。また、海外から技能実習生を招く経営者も増えている中、「言語相対論」というワードを意識すれば、彼らとのコミュニケーションの円滑化や、異文化理解のヒントになることだろう。