生きた証を求めて── 果てなき能楽の先に、世阿弥が見出したもの

日本の代表的な伝統芸能である能楽。その能楽を芸術として完成させたと言われるのが観阿弥・世阿弥父子だ。彼らは能役者としてはもちろん、脚本や謡曲の作者・作曲者としても多くの業績を残した。さらに、息子・世阿弥は、能芸論書である『風姿花伝』や『花鏡』の著者としても知られる。本稿では、世阿弥の能芸論を読み解き、世阿弥が言う「初心」や「花」が持つ意味を追求する。

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センチュリー2022年3月号

世阿弥という人

初心忘るべからず── 誰もが一度は聞いたことがあるであろう成句だ。「始めたころの謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならない」という意味で捉えられていることが多々あるが、その本来の意味は大分異なる。この成句は、室町時代に生きた能役者・世阿弥が残した言葉だと言われている。その本来の意味を記す前に、まずは世阿弥という能役者がどんな人物だったのかについて触れたい。

世阿弥が生涯を賭して向き合い続けた能楽は、かつて「猿楽」と呼ばれていた。「猿」とは「散」の当て字であり、8世紀ごろに中国から伝わった「散楽」が、能の起源である。散楽には、曲伎(アクロバット)、幻術(マジック)、そして滑稽芸(お笑い)があり、後に滑稽芸だけが残って現在の能・狂言と成ったという。
元来猿楽は、雅楽などの宮廷音楽に対して、猿楽法師という賤民によって見世物として行われるものであり、主に神社の祭礼や寺院の法会などの宗教行事における余興であった。そのような民間芸能が、13世紀ごろから演劇的構造をそなえるようになり、猿楽能として発達していった。そして、14世紀に入り登場したのが、観阿弥・世阿弥父子である。彼らにより猿楽は芸術として完成を遂げ、「能楽」という名で現代にまで残る芸能となった。
観阿弥・世阿弥父子は、役者であるとともに、その脚本ないし歌曲である謡曲の作者・作曲者としても多くの業績を残し、さらに世阿弥は演出その他についても独自の見識を示す演能論「風姿花伝」などの著作を残した。
そうして、観阿弥のころから、役者が作品を書くことが増えていき、世阿弥の代になると、創作はもちろん芸風もさらに洗練され、「複式夢幻能」という戯曲形式の完成にまで至る。この「複式夢幻能」は、現代においてもっともポピュラーな形式の一つと言えるだろう。彼らは、時の将軍・足利義満をはじめ、当時の権力者から寵愛を受けた。その中で、民間の演芸であった猿楽能を、支配階級から民衆にいたる、あらゆる階層に享受される、民族的な文化にまで高めたのだ。

観阿弥の作品にはまだ大衆性が色濃く残り、どちらかと言えば民間になじみの深い実在の人物を題材にした曲目が多い。しかし、世阿弥の作品は古典に寄るものが増え、より洗練された典雅な作風を示すようになる。こと劇の内容については、世阿弥は人間の「精神」や「心」をより掘り下げて表現する傾向が著しい。静寂な古寺の境内で恋人への思慕の思いにふける女性の心の表現に凝集された夢幻能「井筒」。別離の夫を怨み恋いながら死ぬ妻の悲劇を詩的な詞章に綴った「砧」。妻との再会の約を裏切って自殺した敗軍の将の苦患を描いた「清経」── 人間の愛憎と運命を美しい詞章で表現した戯曲は、王朝文芸と中世的世界観との綜合の上に成立した芸術と言える。
しかしながら、観阿弥・世阿弥父子の身分は決して高くはなく、むしろ差別の対象になることがあった。世阿弥が少年だったころ、彼を寵愛した足利義満に対して、時の貴族であり内大臣でもあった三条公忠は、自身の日記で次のように記している。「大樹(義満)は世阿弥という『児童』を寵愛しているが、この者は『散楽者』であり『乞食の所行』をする者である」と評し、義満の行いを批判している。当時の社会において、彼らは「芸術家」ではなく、「乞食」として扱われていたのだ。

花鏡

冒頭に述べた「初心忘るべからず」は、「風姿花伝」と並んで、世阿弥が著した能芸論書として知られている「花鏡」に詳しい内容が記されている。「花鏡」は、「風姿花伝」以後に、世阿弥が20年かけて著したものだ。その最後の「奥段」に、次のような記述がある。

しかれば、当流に万能一徳の一句あり
この句、三ヶ条の口伝あり
是非初心忘るべからず(中略)
時々初心忘るべからず
老後初心忘るべからず
この三句、よくよく口伝すべし

「是非初心忘るべからず」の意は、「若いころの未熟な芸を忘れなければ、そこから向上した今の芸も正しく認識できる」ということだ。次の「時々初心忘るべからず」とは、「年盛りから老後に至るまでの各段階で年相応の芸を学んだ、それぞれの初めての境地を覚えていることにより、幅広い芸が可能になる」という意味。そして最後の「老後初心忘るべからず」は、「老後にさえふさわしい芸を学ぶ初心がある」ことを意味し、それを忘れずに限りない芸の向上を目指すべきだということを説いている。
最後の「老後初心忘るべからず」については、次のようにも綴られている。

(前略)命には終りあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後の風体に似合ふ事を習ふは、老後の初心也(後略)

人の命には限りがあるが、能には終わりがあってはいけない。老者だからといって自身の芸が極まったと思わず、その時の自分に合う芸を習い、限りない芸の向上を目指すべきだという。
つまり、初心というのは物事を始めたばかりの時のことだけを指すのではない。そのころの初心は、その後の自身の成長を図るために忘れないようにすれば良い。ただ、どんなに成長しようとも、その時々の初心がある。始めたばかりのころの初心。能楽のなんたるかを理解し、盛りの時期を迎えてからの初心。盛りを終え、衰えを迎え、老骨となってからの初心。一つの初心が過ぎ去っても、次の初心が待っている。どんなに物事を極めたと思っても、その時々に初心は訪れる。その積み重ねを永遠に続けることが、能楽に向き合うということだ。そう世阿弥は語っている。

風姿花伝

さて、ここでもう一冊、世阿弥の代表作について言及したい。「風姿花伝」を思い出す方も多くいるだろう。「風姿花伝」とは、亡き父親観阿弥の遺訓にもとづく、彼の最初の能芸論書である。
「風姿花伝」の主題の一つと言えるのが、書名にもある「花」だ。世阿弥は、この書名について、次のように述べている。

(前略)この芸、その風を継ぐといへども、自力より出づる振舞あれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、風姿花伝と名付く。

ここで言う「風」とは、古来の遺風伝統を示しており、「風を継ぐ」とは、伝統を引き継ぐということだ。能楽は、伝統と共に、個々人が築く固有の形から成り立つものでもある。それは、言葉で言い表すのは難しく、伝統という風に乗り、心から心に伝える「花」であるため、同書を「風姿花伝」と名付けたのだという。
さて、世阿弥が言う「花」とはいったい何なのだろうか。「風姿花伝」の中で世阿弥は、「七歳」「十二、三より」「十七、八より」「二十四、五」「三十四、五」「四十四、五」「五十有余」の各年齢において、それぞれ大切な稽古や心構えを記している。「七歳」は能楽を始める年齢であり、良い悪いを教えるのではなく、やりたいようにさせるべきだという。あまり強く教えてしまうと、子どもはやる気をなくしてしまうからだそうだ。
「十二、三より」では、段々と声が謡の調子に乗ってきて、能らしくなってくる。子どもらしさも相まって、いよいよ花やかになる。だが、この花は「誠の花」ではないのだという。
「十七、八より」では、このころは特に大切な時期だという。子どもと大人の境目と言え、声も変わり身体も大きくなる。子どものように、何をしても褒められる時期は過ぎ去ってしまう。そして、生涯を賭して能を捨てない覚悟を持たない限りは、稽古をしてはならない。ここで捨てれば、能の道は終わりだという。
「二十四、五」になると、その様相が変わる。ここから先は、能の道で生きるという覚悟を持った者に対する、世阿弥の厳しい言葉が連なる。その内容は次の通りだ。

(前略)さればこの道に二つの果報あり。声と身なりなり。これ二つはこの時分に定まるなり。年盛りにむかふ芸能の生ずる所なり。さるほどに、外目にも、すは上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。本、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、返すゞゝ主のため仇なり。これも誠の花にはあらず。年の盛りと、見る人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利きは見分くべし。
この比の花こそ初心と申す比なるを、極めたるやうに主の思ひて、早や、申楽にそばみたる輪説をし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。たとひ、人も讃め、名人などに勝つとも、これは、一旦の珍しき花なりと思ひ覚りて、いよゝゝ、物まねをも直にし定め、なほ、得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば、時分の花を誠の花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて、花の失するをも知らず。初心と申すはこの比の事なり。

端的に言うと、調子に乗ってはならない、ということだ。声も身体も出来上がり、その新鮮さから人目を引き、名人と呼ばれるような人に、立ち会い勝負で勝つこともある。それにより、本人も自分が達人にでもなったかのように錯覚してしまう。さもその道を極めたかのように、能楽について勝手な意見を述べる。この「一時の花」を「誠の花」と勘違いしてしまうと、「真の花」から遠ざかってしまう。そして、初心というのはこのようなことなのだという。
「三十四、五」では、世阿弥は「このころがもっとも盛りの時期」だと記している。いわゆるピークの時期であり、この後は徐々に衰えていくという。この時期になっても、名声も思うほど得られなければ、「真の花」を極めたとは言えない。さらに世阿弥は、この時期においても「なほ慎むべし」と語っている。
「四十四、五」になると、身体が衰え、身体的な花も観客から見た花も消えてしまう。そのため、その身に相応しい風体で、脇の役者に花を持たせて、控えめに演じるのが良い。そして、この時期までに失せぬ花であれば、それこそが「真の花」なのだという。
「五十有余」になると、兎角無理はしないほかに方法はないという。だが、本物の能役者であれば、演じられる曲がなくなり、善し悪しの見どころが少なくなっても、花は残る。そのことを世阿弥は、父・観阿弥になぞらえて次のように述べている。

亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそ、その比、物数をば早や初心に譲りて、やすき所を少なゝゝと色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり。これ、誠に得たりし花なるが故に、能は枝葉も少く、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

五十二歳で亡くなった観阿弥は、亡くなる直前に駿河国(現在の静岡県)の浅間神社で能を奉納した。観阿弥にとって最後の舞台となったその舞に、世阿弥は「真の花」を見出している。多くの演目は初心(若い能役者)に譲り、簡単な部分だけを僅かばかり色どりながら舞うその姿は、枝葉もない老木のようだった。だが、そこには確かに花が咲いていた。老骨に咲く花は、世阿弥が追い求める「真の花」であった。

真の花

数多の初心を積み重ねて、能楽を突き詰めてきた世阿弥。彼は「風姿花伝」の最終章「花伝第七 別紙口伝」にて、「真の花」について次のように述べている。尚、その後に筆者による現代語訳も添える。

(前略)この道を極め終りて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義を極めて、萬づに珍しき理を我と知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、「善悪不二、邪正一如」とあり。本来より、よき・あしきとは、何をもて定むべきや。ただ、時によりて、用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の数人、所々に亙りて、その時の遍ねき好みによりて取り出だす風体、これ、用足るための花なるべし。此処に、この風体を玩ば、彼所に、また余の風体を賞玩す。これ、人々心々の花なり。いづれを誠にせんや。(後略)

(前略)この道を極めた今考えてみると、花とは特別なものではない。奥義を極め、万の珍しいものの理を悟らなければ、花は得られない。維摩経入不二法門品に曰く、「善悪は分けられるものではなく、邪と正は表裏一体」とある。本来、善悪とは何をもって定められるというのか。ただ、その時々に足りるものを善しとし、足りないものを悪しとするだけだ。能楽の風体は一つだけではなく、様々な土地や時代を生きる人々、それぞれの好みに合わせて種々の風体を用いる。それこそが、用に足る花だ。ある場所ではある風体が楽しまれ、別の場所では別の風体が称賛される。これこそ、人々心々の花であり、果たしてどれか一つを誠と言えるだろうか。(後略)

さて、改めて世阿弥が言う「真の花」について考えてみたい。尚、ここから先はあくまでも筆者の解釈であるため、読む人一人ひとりが花の解釈をしていただきたい。
世阿弥の父・観阿弥は亡くなる直前、駿河国・浅間神社の御前において法楽を奉納した。その姿を見た世阿弥は、老骨の父に誠の花を見出している。これは、先に紹介した「花鏡」の初心の項にある「命には終りあり、能には果てあるべからず」にも通ずるのではないだろうか。たとえその人が死して身体が朽ち果てようとも、永遠に続くもの。その人が生きた証であり、その人がその人たる証。それこそが、花なのではないだろうか。

作家や画家、作詞家、作曲家、演奏者などの表現者とも呼べる人々が残す作品たちの中で、長きにわたって愛されているものは数知れず。そして、スポーツ選手や、国や会社を統べる人々も然りで、その人が死してもなお、彼らが守り、愛した組織や功績は生き続ける。
大きな花でなくとも、「これが私なのだ」と、他者から見て、「あなたらしいね」と、そう言われる何かを得たいと思う。今この文章を書いている自分自身、“自分の花”が何であるのか、まだ見つけられていない。どんなに小さくても、“私”という花を得られたら、自分が今生きている意味を見出せるのではないか──そうして見つけた花は、きっと何よりも美しいことだろう。

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