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生誕百周年に寄せて三島由紀夫を振り返る

日本が世界に誇る昭和の文豪・三島由紀夫。45歳での早世だったが、1925年の生誕から2025年で100周年を迎えた。今なお三島文学は世界中で愛読・研究され続けており、その影響力は計り知れない。作家としてだけでなく、メディアでの露出や政治活動などでもセンセーショナルな話題が尽きなかった三島は、文学を超えて多角的に語られる存在だ。私たちは何故こんなにも三島が気になるのだろうか? 三島由紀夫とは何だったのか? この度の生誕100周年を機に、改めて彼の功績などを振り返る。

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マスターズ2025年4月号

「日仏会館」で100周年イベント

 2025年1月14日、三島由紀夫の生誕から100年を数えた。これに合わせた催しが同日、東京の「日仏会館」で開かれ、親交のあった画家の横尾忠則氏が、生前の三島とのエピソードを語った。聞き手は芥川賞作家の平野啓一郎氏だ。

 二人が交流を持つようになったのは、三島が横尾氏の展覧会を訪れたことがきっかけだった。横尾氏は「三島さんは僕にとって教育者だったと思います。いつも約束の時間に遅刻していたので、会うたびに説教されました」と明かした。また、一緒にレストランを訪れた時のエピソードとして、「お客さんが三島さんの存在に気付かず、気に入らなかったのか、三島さんがカウンターの公衆電話で『三島由紀夫ですけど』と周りに聞こえるよう電話をかけ、お客さんをびっくりさせて満足していました。注目させたいという遊びの気持ちがあった」と話し、会場を笑わせた。さらに、「三島さんは文学においてのことばの限界を感じていて、『文学よりも美術のほうが次元が高い』と話していました」と、その印象的な言葉を振り返る。これらのエピソードからだけでも、生真面目さ、ユーモア、自己承認欲求の強さ、文学以外への関心など、イメージ通りの人物像が見えるようだ。

 イベントを主催した『白百合女子大学』の井上隆史教授は、「生誕100年で、これだけ皆さんが語り合う作家はそれほど多くありません。今の私たちにもつながるものがあると思うので、もっと若い、新しい世代が三島を読み、考えることにつながってほしいです」と話した。

三島由紀夫生誕100周年記念展「MISHIMA BEST SELECTION~珠玉の100選~」


 『山中湖文学の森 三島由紀夫文学館』では、三島の生誕100年を記念し、2025年1月11日〜12月28日の期間で「MISHIMA BEST SELECTION〜珠玉の100選〜」展を開催する。ただ代表作ばかりを展示するのではなく、エポック・メイキングな出来事の資料だけを展示するわけでもない。文学館スタッフが厳選した貴重な資料、面白い資料、ちょっと説明を加えると輝き出す資料、小さくて目立たないけれども大事なことを物語る資料、そして「これぞ三島」という資料など100点をピックアップ。今回が初公開となる資料も含め、年代順に展示して45年の生涯と没後55年の合計100年を見通せるように工夫した、本年だけの特別展示だ。なお、この記念展でも「日仏会館」でのイベントに参加した横尾忠則氏が協力している。

戦後文学のアイコン


 『白百合女子大学』の井上教授が「生誕100年で、これだけ皆さんが語り合う作家はそれほど多くありません」と語った通り、三島由紀夫という作家は日本の近現代文学史の中でも特に知名度・評価ともに高い特別な作家だ。そのパブリックイメージは作家としてのみならず、評論家、ボディビルダー、政治活動家など多岐にわたる。自衛隊への決起を呼びかけて割腹自殺を図ったセンセーショナルな最期を遂げた人物、として認知している人も多いだろう。時代のアイコンとして話題が尽きなかった人物だからこそ、「何がそんなにすごかったのか」が分かりにくいところもある。これを機に、改めて彼の功績を振り返りたい。まずは略歴をおさえておこう。

短くも濃密な人生─その略歴

 1925年(大正14年)東京出身。本名は平岡公威。良家に生まれ、いわゆる“おぼっちゃん”だった三島は、祖母に溺愛されて育った。幼少期は病弱で病室で過ごす時間が長く、その時に触れた童話や絵本が豊かな想像力や創作意欲につながり、10歳の時には『世界の驚異』という自作童話を創作した。学校は『学習院』に進み、16歳の時に初めて学外雑誌に小説を発表。三島由紀夫のペンネームで、1941年に『花ざかりの森』によって文壇デビューした。太平洋戦争開戦の年だった。

 『学習院』を首席で卒業した後、『東京帝国大学(現・東京大学)』に入学。病弱な三島は兵役を免れた。大学を卒業すると、小説家という職業を半ば断念する思いで大蔵省(現・財務省)に入って官僚の道に進むも、作家への道を諦めきれず9カ月で退職する。そして1949年に発表したのが、今でも代表作の一つとして数えられる『仮面の告白』。三島本人をモデルとする語り手が、自身がゲイであることを受け入れてゆく経緯を振り返る、センセーショナルな小説だった。改めて文壇デビューを果たした三島は、『禁色』や『潮騒』などを発表。そして1956年、31歳で自身の代名詞とも言える傑作『金閣寺』を発表した。その後も小説を書き続けるが、1960年にやくざ映画『からっ風野郎』を主演、1963年には細江英公写真集『薔薇刑』の被写体となるなど、文学とは異なる分野でも成功しマスコミの寵児となる。ただ、三島は小説家としてより大きなスケールの作品で勝負したいという思いを持ち続けていた。その集大成が『豊饒の海』シリーズだ。第一巻となる『春の海』のスタートから約6年をかけ、第四巻『天人五衰』にて完結。最終回原稿を編集者に渡した後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自殺をし、1970年11月25日、享年45歳の短い人生を終えた。

ノーベル文学賞の候補に複数回ノミネート

 三島はいくつかの文学賞を受賞しているが、芥川賞などの一般的知名度が高い賞を取っていないこともあって、「どれくらいすごいの?」と思っている人も多いだろう。分かりやすい指標として、三島は世界最高峰の文学賞であるノーベル文学賞で複数回受賞候補に挙がっている。 

 ノーベル文学賞は『スウェーデン・アカデミー』が選考しているが、規定により推薦や選考の詳細情報は50年間の守秘義務がある。三島の死後から50年以上経っている今公表されているのは、1963年に初めてノーベル文学賞に候補者として推薦され、その後、1964年、1965年、1967年、1968年の計5回推薦されていたということだ。初めて候補になった1963年を例に、その評価について触れたい。

 1963年は80名の候補者が推薦され、日本人では三島の他に谷崎潤一郎、西脇順三郎、川端康成が含まれた。さらに絞り込まれた6名の有力候補者の1人にも三島は残っている。その後も計5回にわたって候補に選ばれ、確かな世界的評価を得ていたにもかかわらず、何故受賞に至らなかったのか。詳しくは日本文学者で三島の友人でもあったドナルド・キーン氏による1963年の報告書に、その理由が述べられている。

受賞に届かなかった理由

 キーン氏は報告書の中で、谷崎、川端、三島、西脇の4名の候補者について紹介と比較を行っている。谷崎をノーベル文学賞候補者として最も高く評価し、川端についても同様に高く評価しているのに対して、西脇については否定的な見方をしていた。そして三島に対しては「恐らく現在日本で活動している最高の作家」と位置づけた上で、「まだ40歳未満であり、恐らく小説家、劇作家として成長するであろう」「三島がもらい、谷崎、川端がもらわないと、日本人は大変奇妙に感じる」と述べている。また、三島は将来再びチャンスがあるのに対し、谷崎や川端は恐らく次のチャンスがないと指摘。年齢的な面でも、三島よりも谷崎、川端を推していた。その後の候補年についても、三島は谷崎や川端に次ぐ2番手の候補で終わってしまったことが、ノーベル委員会の報告書から明らかだ。

 なお、三島自身は1958年と1961年にそれぞれ谷崎と川端を推薦する推薦状を書いた経験がある。その後谷崎は1965年に死去したが、1968年には川端が日本人初となるノーベル文学賞受賞を果たした。1970年に三島は死去してしまうが、もしもっと長生きしていたら……? タラレバで無意味なこととは分かっていながら、つい想像してしまう。

デビュー初期から世界の三島に

 三島は1950年代から1960年代にかけて精力的に執筆活動を続け、日本の文壇で注目されていた。並行するように、海外でも同時代的に注目されている。若くして“世界文学”となったのは、先述の日本文学者ドナルド・キーン氏による功績が大きい。キーン氏は1956年に、日本文学翻訳のアンソロジー『Modern Japanese Literature: An Anthology(日本文学選集・近代編)』を刊行した。氏が選んだ名作の全部または一部の英訳を年代順に並べ、古典篇と近代編の2分冊にしたものだ。これが日本文学を広く世界に紹介するきっかけの一つになったのだ。内容は、『万葉集』『源氏物語』などの古典から三島由紀夫、太宰治らの現代作品、和歌や連歌、俳諧や漢詩文、また能や狂言、浄瑠璃までがバランスよく収められている。このアンソロジー刊行から半世紀後にあたる2006 年には、『コロンビア大学』で50周年祝賀会が開かれた。世界各地で日本文学に関わる人が集まり、「自分が最初に日本文学に出会ったのはこのアンソロジーだ」と口々に言ったという。キーン氏のこの仕事がなければ、1950年代時点でまだ世界的には日本文学は“未開”だったことだろう。三島が1963年時点でノーベル文学賞候補に挙がったのは、時代も上手く噛み合っていたのだ。

 ちなみに三島とキーン氏は非常に仲が良かったそうだ。氏は「彼と共に過ごした時についての私の記憶は、すべて幸せなものばかりであった」と語り、作家としての才能を「天才」と評価する一方で、仕事を抜きにした親友同士でもあった。それ故に、三島の割腹自殺は氏に大きなショックを与え、訃報を受けると放心状態になったという。

作品の特徴と三島の美意識

 世界的にこれだけ評価されている三島の作風は、どういったものなのだろうか。まずはその文体の強度と美しさがあげられる。比喩表現や豊富な語彙を駆使した華美な文章は、装飾過多とも言えるほどに絢爛豪華な印象を与える。作品テーマにも美を扱うものが多い。例えば代表作『金閣寺』は、金閣寺の美しさに魅入られた男が、金閣寺に学僧として入り、やがて現実の金閣寺と頭のなかにある理想のそれが乖離していることが分かっていき、金閣寺を燃やすことを決意するという話だ。少々難解な語句も登場するが、事物や情景、心理描写などについての微細にわたる表現は、他には到底まねのできない華麗さ、荘厳さを備えている。以下に一部抜粋する。

「もう私は、属目の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、華頭窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌を流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた」

 「属目」「照応」といった日常で使わない言葉が出てくるほか、「金閣の全貌が鳴りひびいた」という詩的な表現が入るのも特徴だ。三島は辞書を引くのではなく「読んでいた」という逸話がある。真偽はともかく、そんな逸話に納得させられるほどの語彙力があったことは確かだ。その才能と努力によって文章で美を構築しようと試み続けた三島は、文学以外でも自分自身を磨き美しくあろうとした。

ボディビルダー、俳優、モデル
作家活動だけにとどまらない活躍

 1960年代の三島は映画の主演や写真集のモデルなど、幅広く活躍を見せ始める。それに先んじて身体を鍛え始めたことが、三島の一つの分岐点だと言えそうだ。ちょうど『金閣寺』の執筆時期にあたる30歳ごろから身体を鍛え始めたと言われており、美しく鍛え上げられた肉体を得た三島は以下のような心境を記している。

「知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい」「海岸では絶対に裸にならないなどと言つてゐる人を見るとボディ・ビルをどうしてやらないのか気が知れない」「だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい」

 こうして肉体を鍛えた三島はボディービル大会で審査員を務めるまでになる。略歴でも触れたとおり、三島はもともと病弱だった。そのコンプレックスを、身体を鍛えることによって克服し自信を付けたのだ。だからこそ、身体を鍛える努力もせずに病的・破滅的な生活を送る太宰治を執拗に嫌った。三島が太宰のことを「嫌い」と公言していたことは有名だが、『小説家の休暇』の中では名指しで以下のように批判している。

「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」

 マッチョが過ぎるとも感じる三島の発言であるが、そのストイックさには頭が下がる。そうして作家活動以外にも精力的になり、社会では学生運動が盛んになっていく1960年代、三島は急速に政治に接近していく。1966年には二・二六事件や特攻隊の霊を題材にした『英霊の聲』を発表。そして1968年には民間防衛組織「楯の会」を結成する。

楯の会の結成と壮絶な最期

 1970年、日米安全保障条約が初めて自動延長され、憲法9条を含めた日本国憲法の改正・安保破棄が叫ばれていた。そんな中で三島が主張したのは大きく3つ。

 1.「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」と定義した憲法の改正

 2.日本の自主防衛は国家としての基本的物理保障であるとする「自衛隊の国軍化」(自主防衛論)

 3.象徴天皇制を批判する「天皇・国体論」

 これらは日本国憲法の破棄または改正を意味しており、三島は高度経済成長していく当時の日本社会において、日本の伝統的道徳観や価値観、国家としての自尊心が失われていくことに危機感を持っていた。そのため、日本を守る存在である「自衛隊」の決起に期待を寄せていたのだ。三島が結成した憲法改正・自衛隊国軍化を標榜する民兵組織「楯の会」は、憲法改正の緊急性を主張し、主要メンバーと憲法改正草案の起草や武装蜂起の具体的な計画を練っていく。

 そして、1970年11月25日、「楯の会」の森田必勝ら4人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問しクーデターを決行。軍刀などを手に総監室を占拠した。三島は市ヶ谷駐屯地の自衛官全員を本館前に集合させることを要求し、あの有名な本館バルコニーでの「三島演説」へとつながる。同日正午、三島は日の丸鉢巻姿で本館バルコニーに立ち、自衛隊による憲法改正のための決起を自衛官に訴えた。この模様はテレビでも中継されたが、報道用のヘリコプターの騒音や自衛官らの野次・非難が飛び交い、自衛官らには三島の演説が届かなかった。そして約10分の演説の後、総監室に戻り、森田の介錯によって割腹自殺による最期を遂げた。

“戦後最大の知性”に触れる

 三島の文学や言動を完全に理解するのは簡単ではないが、作品に触れたことがない人は、この機会にまず著書を読んでみよう。日本文学史上の頂点の1つに数えられる美文と深いテーマ性からは、何か感じるものがあるはずだ。また、自らの心身を鍛え抜き、専門分野以外にも関心を向けて学び続けた超人的にストイックな姿勢は、時代を問わず見習うべきところだろう。政治活動に関しては賛否両論あるものの、当時の時代背景を踏まえて三島なりに日本のことを憂えたその思想を分析すれば、何か今の時代に活かせる発見があるのではないか。

 世界的文豪として評価され、現代の政治学者からも“戦後最大の知性”と言われる三島由紀夫。今なおあらゆる角度から議論され天才と称され続けているが、知れば知るほど「三島とは何者なのか」が分からなくなる部分がある。そんな、多くの顔を持ち一筋縄ではいかない奥行きと深みが、三島の魅力なのだろう。

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