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日本文学を世界に広めた功労者──ドナルド・キーン生誕百周年に寄せて

ドナルド・キーンという文学者をご存知だろうか。米国人ながら日本文学研究の世界的権威として活躍し数多くの著作を残して様々な文学者との交流も図った人物だ。その中で世界に日本の文学や文化の魅力を発信し日本文学を世界文学へと押し上げることに大きく貢献した。谷崎潤一郎や三島由紀夫といった文豪の名が世界にとどろき大江健三郎のノーベル文学賞受賞など戦後の作家が世界から大きく評価されたのもキーン氏が土台を作ったお陰だと言っても過言ではない。2022年は、そんな偉大なる文学者の生誕100周年にあたる。改めてその功績と、ドナルド・キーンとは何者だったのかを振り返りたい。

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マスターズ2022年6月号

ドナルド・キーン生誕100周年

ドナルド・キーン生誕100周年

 新潟県柏崎市にある『ドナルド・キーン・センター柏崎』では、今年2022年が日本文学者ドナルド・キーン氏の生誕100周年にあたることから、その生涯を振り返る企画展が開かれている。

 キーン氏は2007年の新潟県中越沖地震の後、被災地の復興支援をしようと、柏崎市を舞台にした江戸時代の古浄瑠璃「越後國柏崎 弘知法印御伝記」を、およそ300年ぶりに復活させた。それを機に柏崎市との縁が始まり、文化活動の発信基地として、2013年に『ドナルド・キーン・センター柏崎』が設立されることになった経緯がある。氏は2019年に96歳で他界したが、同センターではキーン氏の書斎や居間を再現した復元展示室、著作本を閲覧できるコーナー、講演会などの豊富な映像を視聴できる映像ライブラリーを設け、その功績の数々を保存・発信している。

 キーン氏は米国出身の文学者だが、こうしてセンターが設立されるほどに、日本の文化発信に貢献した。キーン氏の功績がなければ、日本の作家が世界から評価される土台はできていなかったかもしれない。ドナルド・キーンとは何者だったのか、ここで振り返りたい。

アジアの文化、漢字に出会う

 キーン氏は1922年のニューヨーク生まれ。少年時代から利発で、小学校、中学校、高校と成績はクラスで1番だった。その間2度の飛び級をし、通常より2年早く16歳で『コロンビア大学』に入学。在学中に、“漢字”との出会いがあったことが、大きなターニングポイントになった。授業で隣に座ったのが李という中国人で、そこで漢字というものが世の中にあることを初めて知る。それまでヨーロッパの言語しか知らなかったキーン氏にとって、この出会いは衝撃的だった。

「大学に入って初めて、自分が勉強してきたことが全世界の文化の半分に過ぎないことを知った。それまで私は古代ギリシャやローマについて数多くの本を読んだし、こうした国々が人間の教養の発祥の地であると信じていた。ある日、自分が読んできた本が、アジアについてほとんど触れていないことに気づいた」──

そして決定的だったのが、その後の『源氏物語』との出会いだ。

源氏物語の衝撃

 アジアの文化に興味を持ち始めていた18歳の時、たまたま入った古本屋で表紙に日本の女性の絵が描かれた本を見つけた。「安かった」という理由で購入したその本のタイトルは「The Tale Of Genji」。源氏物語だ。早速読み始めると、約1000年も前の異文化の物語であるにもかかわらず、登場人物の心の動きが鮮烈で手に取るように分かり、強い感動を覚えたという。そこから日本文学に傾倒し、大学4年生の時には角田柳作の「日本思想史」を受講。これが、生涯にわたってキーン氏が唯一「先生」と呼ぶ人物になる、恩師との出会いだった。こうして日々日本への理解を深めつつあったところ、1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃をきっかけに、日米が戦争に突入した。

ドナルド・キーンの日本文学者としてのスタートは源氏物語との出会いから始まったと言える
ドナルド・キーンの日本文学者としてのスタートは源氏物語との出会いから始まったと言える

通訳として日本語能力を磨き
本格的に文学者の道へ

 この戦争が、語学力を磨くきっかけになった。海軍日本語学校に入学し、11カ月間の集中的な日本語教育の後、海軍情報士官として様々な任務で従軍。書類の翻訳、日本兵の残した日記の読解、日本兵捕虜への尋問や通訳などに従事した。日本語学校で信頼できる日本人に会ってきたキーン氏は、戦場でも日本人に憎しみを持つことはなく、日記からは日本人の気持ちを深く読み取ったという。

 終戦後は改めて日本文学の研究を進め、1951年には近松門左衛門の浄瑠璃研究で、『コロンビア大学』で博士号を取得した。そして53年夏、奨学金を得て憧れの古都・京都への留学が実現。古風な日本式の生活を送りながら執筆に専念した。そして55年5月に帰国し、その9月に『Anthology of Japanese Literature(日本文学選集・古典編)』を刊行。これが文学者として最初の大仕事であり、今なお代表的な功績の一つである。

今尚影響力の褪せない
世界に日本文学を広めた著作

 『Anthology of Japanese Literature(日本文学選集・古典編)』に続き、翌56年には『Modern Japanese Literature: An Anthology(日本文学選集・近代編)』を刊行。これらは古代から現代に至る、日本文学翻訳のアンソロジーだ。選んだ名作の全部または一部の英訳を年代順に並べ、古典篇と近代編の2分冊にした。この時、キーン氏は30代前半。この両著が日本文学を広く世界に紹介するきっかけになり、2冊とも現在に至るまで繰り返し版を重ねている。

 内容は、『万葉集』『源氏物語』などの古典から三島由紀夫、太宰治らの現代作品、それも散文作品のみならず、和歌や連歌、俳諧や漢詩文、また能や狂言、浄瑠璃までがバランスよく収められている。アンソロジー刊行から半世紀後にあたる2006年には、『コロンビア大学』で50周年祝賀会が開かれた。世界各地で日本文学の教育、研究、翻訳に関わる人が集まり、「自分が最初に日本文学に出会ったのはこのアンソロジーだ」と口々に言ったという。キーン氏のこの仕事がなければ、1950年代時点でまだ、世界的には日本文学は“未開”だったことだろう。

「文学」に留まらない著作たち

 キーン氏には生涯でおびただしい著作があるが、その功績は文学というジャンルに留まらない。老齢になって彼は初めて日本人の伝記を書くことを思い立つ。その対象は自身の守備範囲である文学者ではなく、なんと明治天皇であった。それまで英語で書かれた明治天皇の伝記がなく、日本国内においても、1945年の敗戦後に昭和天皇が「人間宣言」をしてもなお、明治天皇を人間として描いた評伝はなかった。『明治天皇』の連載が始まったのは、1995年『新潮45』正月号。これが2000年4月号まで5年以上の長きにわたって続く。そして単行本として『明治天皇』が刊行されたのが2001年10月。キーンは、国際感覚を持った一人の人間が「神」としての役目を務め上げた生涯を、膨大な資料に基づいた丁寧な筆致で、冷静に書き綴っている。

 キーン氏は、この初の評伝作品で新たに毎日出版文化賞を受ける。そして英語版である『Emperor of Japan:Meiji and His World, 1852-1912』が出たのが2002年。この執筆で手応えを得て、さらに足利義政(Yoshimasa and the Silver Pavilion)、渡辺崋山(Frog in the Well)、正岡子規(The Winter Sun Shines In)、石川啄木(The First Modern Japanese)と書き続ける。

大学教授としてのキーン氏

 キーン氏は、多くの教え子を持つ大学教授でもある。学生に日本文学を教える際、それを世界から切り離して語ることは決してなかった。様々な世界文学作家に言及し、「文学の世界は国境を越える」と説いた。例えば、シェイクスピアの『ハムレット』において、王子ハムレットは他人が何を考えるかには無関心だった。それに比べて近松門左衛門の作品に出てくる不運な主人公たちは、彼らが生きた時代の社会的な道徳観の中で行動する。それゆえ、近松作品の主人公たちのほうがより共感を呼ぶと、キーンは結論付けたという。

 こうした彼の授業を履修した多くの学生たちの間で、日本への関心が普及していった。海外の日本文学者、日本の文化に関心を持つ人で、キーン氏の影響を受けた人物は多い。

海外出身の学術研究家として初
「文化勲章」を受章

 こうした数々の仕事が評価され、キーン氏は2002年に「文化功労者」に選ばれた。他にも、「日本文学大賞」「読売文学賞」「米国アカデミー会員」「日本学士院客員会員」「全米文芸評論家賞」「勲二等旭日重光章」「朝日賞」「毎日出版文化賞」など、数えたらキリがない程多くの褒賞を受けている。そして、日本の文化を海外に広く正確に伝播させた長年の功績から、2008年には「文化勲章」を受章。これは海外出身の学術研究家としては初の受章となる栄誉であった。そんな中でキーン氏は、かねてから抱いていた“日本人”になる思いを次第に強めていく。

日本に帰化し、日本人の養子も

 2011年の東日本大震災の後、キーン氏は日本国籍の取得に向けて動き出す。震災直後というタイミング的に、あたかも日本国民との「連帯を訴えるジェスチャー」として、衝動的に日本国籍を申請したかのようにジャーナリズムには宣伝されてしまったが、キーン氏の日本への思いはそんなに単純なものではない。弟子のバーバラ・ルーシュ氏は、キーン氏の帰化への思いは「昔からゆっくりと成長していく樹木のように、日本の豊かな土壌の中で半世紀以上にわたって着実に育ってきたことにより、はるかにしっかりと深く根ざしていたのです」と、美しい比喩で語る。さらに、日本国籍取得と同時期に、浄瑠璃三味線奏者の誠己(芸名:越後角太夫)を養子に迎えた。「日本人が好きです。日本人として死にたい」と語ったキーン氏が、日本人の家族をも持った瞬間だった。そして、冒頭で紹介した『ドナルド・キーン・センター柏崎』の設立が、この翌年の2013年のことだ。

平和への思い

こうして日本人となったキーン氏は、日本の平和を心から願うメッセージを残している。日本文学者、米国『タフツ大学』のチャールズ・イノウエ教授は、キーン氏と晩年の数年間、親密なメールの交換をしていた。その中で、平和に対する思いをいくつか述べていたという。日本と日本人が大好きなキーン氏であったが、それ故に、憲法の改正などが議論になっても、歴史や平和について無関心な日本の状況に失望を示していたという。

 「もう二度と日本が戦争の苦しみを経験してほしくない。もし、もう一度、戦争が起きると、一巻の終わりだ」

 「(憲法とオリンピックに対する私の考えが新聞に掲載されたが)今のところ2人しか反応がない。知り合いの元新聞記者と教え子だけだ。奇跡は起きなかった」

 いずれも2014年1月のメールだ。こうして平和に対して思いを寄せる背景には、自身が70年余前に戦争を体験をしていることがあるようだ。

 日本には素晴らしい文化がある一方で、悪い部分にも提言しなければならないとキーン氏は考えていた。日本を外国人として批判するのではなく、同じ日本人として苦言を呈したい─国籍の変更にはそうした思いもあったようだ。しかし、キーン氏ほどの教養と影響力のある人物であっても、その声はなかなか届かない。

 「私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときにしか、耳を傾けてくれないことだ」

 という言葉も残している。また、キーン氏は日本が平和であるために、日本人は日本文学をもっと真剣に捉えないといけない、と話していたそうだ。日本人が何者であるのかや、心情を理解するためにも、もっと文学作品を読まなけれならない、と。文化や国民性を深く理解し、平和へとつなげていくために文学の理解は無関係ではないのだ。国籍を変えるほどに心から日本を愛したキーン氏のこうした言葉は、海の向こうで戦争が起こっている今、改めて深く考える意味がある。

優れた文学者に恵まれた幸運

 こうして数々の功績を残した文学者を得たことを、幸運だと思わなければならない。英語を母語とするキーン氏でなければ、こうした功績には結びつかなかっただろう。キーン氏は、「いわば宣教師として、日本文化という宗教を海外に広めたい一心で。目指したのはまず、日本語の美しさそのものを伝えることでした」。と話す。その“布教”は、ある程度成功したと言って良いだろう。大戦前の海外おいては、日本に源氏物語があり、近松門左衛門が、谷崎潤一郎がいることをまだ知らない人が大多数だったはずだ。

 近年の日本の作家が世界的な評価を受けているのも、キーン氏が道を開いたからこそ。ノーベル文学賞やブッカー賞など、世界的な文学賞で日本の作家が候補になっているニュースを見た時など、この優れた“日本人”文学者が残した功績を、少しだけ思い出してほしい。

ドナルド・キーン ╳ 文豪たち

【谷崎潤一郎、川端康成】

 キーン氏はこの二人を「友人と呼ぶにはいささか抵抗がある」とする。その交流は、「年少の崇拝者にニ人の文豪が示した再三の親切と解釈したほうがよかろう」とのこと。両文豪は、キーン氏の研究に協力を惜しまなかった。そしてキーン氏は、両文学を論じることで日本の現代文学を高みへと押し上げた。

【三島由紀夫】

 三島とは非常に仲が良かったと言われている。「彼と共に過ごした時についての私の記憶は、すべて幸せなものばかりであった」と語り、作家としての才能を「天才」と評価する一方で、仕事を抜きにした親友同士でもあった。『三島由紀夫未発表書簡—ドナルド・キーン宛の97通』という本が出ていることからも、2人が頻繁に連絡を取り合っていたことが分かる。それ故に、三島の割腹自殺はキーン氏に大きなショックを与えた。事件の当日キーン氏はニューヨークにいて、訃報を受けると放心状態になったようだ。後に、三島の素顔に迫った、『三島由紀夫を巡る旅』も出版している。

【安部公房】

 「安部は三島の死後、文学者の中で私の1番親しい友人となった」とキーン氏は語る。安部は文学作家でありながら科学や数学に関する学識があり、それはキーンにはないものであった。当の安部は「私とあなたで日本についての知識量が平等になるよう、頼むから日本について知っていることをこの1年間で毎日1つずつ忘れてくれないか」とキーン氏に頼んだとか。お互いをリスペクトし、かつ仲が良かったことを感じられるエピソードだ。

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