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セネカの死と「人生の短さについて」

「人生の短さについて」という、奇妙な題の書がある。書かれたのは2000年前のローマ、著者は同時代を代表する哲学者で政治家であるセネカ。皇帝とも深く関わり、様々な政治的な思惑に翻弄されてきた人物だ。彼はこの手紙を書いた後引退し、自分の好きなことに打ち込むのだが、その数年後に安息の日々は終焉を迎える─セネカの心の叫びや己への叱咤の念が窺える「人生の短さについて」とはどのような書だったのか。現代人にも何らかの感慨を得られるだろう、彼の人の生死と過去・現在・未来に関する哲学を見てみよう。

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センチュリー2021年12月号

錚々たる西洋画家が描いた
「セネカの死」と題された絵画たち

あなたは「セネカの死」と題された絵画を見たことがあるだろうか? この題で知られる絵画はこれまで錚々たる西洋画家たちの手により描かれてきた。たとえば、新古典主義を代表するジャック=ルイ・ダヴィット。ナポリ派の巨匠ルカ・ジョルダーノ。そしてバロック絵画の大家ピーテル・パウル・ルーベンス……。いずれの絵画においても、半裸の老人・セネカと、弟子か友人と思しき彼を取り巻く人々の姿が描かれ、セネカの顔を凝視する者たちや、何かを書き残そうとする者などが描かれている。構図的に異彩を放っているのはルーベンスの作品で、セネカは観る者に正対し、やや上向きに視線を送っている。その表情は死を迎える間際というよりは生命的な活力さえ感じさせるほどだ。なぜ「セネカの死」が絵画の題材になったのか。背景にどのような物語があったのだろうか─。

約2000年前に活躍し
後世に影響を与えた哲学者

セネカは本名をルキウス・アンナエウス・セネカという、史実上の人物だ。活躍したのは約2000年前とイエス・キリストと同世代であり、ストア学派の哲学者で劇作家、そしてローマ皇帝とも関わり、栄華を極めた政治家だった。非常に弁論に優れ、それがために皇帝に嫉妬されて、殺されかけたこともあったという。そして、様々な切り口から「生き方」について考え、言葉として残した。豊富な実例にユーモアや比喩を盛んに散りばめ、読む人の心を鋭く捉えるその文章は後世の文筆家にも盛んに引用され、影響を与えた。中でもパウリヌスなる人物に宛てた手紙「人生の短さについて」は、セネカの死生観のみならず、彼の行動原理が理解できる告白の書でもあり、彼を代表する書の一つ。執筆当時のセネカは政治の中枢におり、国家事業に携わる重要人物だった。でありながら、文中で彼は、「国家のために働くことよりも自分自身の人生を知ることのほうが大事」「自分自身の用事でもないことに精を出している連中は悲惨」などとこき下ろす。そしてパウリヌスに「人の生には限りがあるのだから、『~歳になったら自分らしく生きよう。それまで仕事を頑張ろう』などと先送りせず、今すぐに自分自身のために時間を使え」と勧めるのだ。

「人生の短さについて」

「人生の短さについて」は、パリウヌスに向けた、こんな一文から始まる。

とかく人間というのは、パウリヌス君、自然の悪意に苦々しげな不満を漏らすものですね。短い一生に生まれつくうえ、そのわずかな持ち時間さえまたたく間に過ぎていく、自然とはなんと意地の悪いものか、と。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

紀元前300年代に活躍したアリストテレスの名を挙げ、偉大な哲学者さえも人間の一生は短いと賢者らしからぬ非難をしていると、セネカはいう。人生は決して短くはなく、その当人の使い方が悪いために短くしているのだと。有限であるはずの一生を無駄に使い、どれだけの時間を失っているかに多くの人が気づきもしないのは、自分の死すべき運命を失念し、時間が永遠にあるかのように思っているから。セネカはそう断言し、そのような人間はあっという間に人生の終点を迎えると喝破する。

多忙に過ごしている人間は、頭の中身が成長しないまま、何の覚悟も準備も整わぬうちに、老齢に不意打ちを食らわされます。なぜなら、彼らにとって年老いるのは思いもよらぬことだからです。日ごと老いが進んでいたとはつゆ知らず、あるとき、ふと気づくのです。たとえば、旅では会話や読書や考え事で気を紛らわしていると、知らないうちに目的地に着いていたということがありますが、まさにそれと同じで、人生という、止まることのない急行の旅も、本人が起きていようが眠っていようが、同じ速度で進行します。あれこれと忙しくしている人間ほど、終点に着くまで気づかないのです。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

人生における時間の無駄遣いをしていては、たとえ時間が千年あったとしても、すぐに使い果たしてしまうだろう、そうセネカは突き放す。そして無駄遣いの例として怠惰な生き方、酒に溺れる者、拝金主義、評価ばかりを気にする者、上司に媚びへつらって疲弊する者を挙げるのだ。加えて「六十歳になったら公務から開放される」などと余生を楽しみに今を乗り切ろうとする者にも「いつ死ぬか分からないのに」と言ったり、将来より良く生きようと寸暇を惜しんで考える者ほど、その準備だけで人生を使い果たすだろう、というのだから手厳しい。
その背景には「未来は全て不確実である」というセネカならではの時間観があるのだが、社会で暮らしていると、好むと好まざるとにかかわらず仕事が人生の大部分を占めてしまうこと、目の前の雑務に追われることは多々ある。「今はなんとか耐え、一段落したら自分のやりたいことをしよう」と、将来に一縷の望みを託し、今を耐え抜く。そんな人も数多いだろうことを考えると、「人間の時間は永遠ではないのだから、自分のすべきことを先送りするな」というセネカの言葉は残酷でもある。
またセネカは“他者の用事のために時間を使うこと”を、「財産や土地なら抵抗するところを、なぜやすやすと渡してしまうのか」と激しく嫌悪する。自分の人生のことなのに、容易に他人が入ることを許し、いつしか乗っ取られてしまっている、と。

とりわけ悲惨なのは、自分自身の用事でもないことに精を出している連中です。他人の眠る時間に合わせて眠り、他人の歩く速さに合わせて歩き、他人に命じられるままに(さまざまな感情のうちでも最も自由であるはずの)愛だの憎しみだのを覚えている。それで、自分の人生が短いと嘆くのなら、己のためにいかにわずかな時間しか使っていないかを考えればいいのです。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

「次々と後継者に先立たれ、弔いに疲れたあの老婦人に、財産目当ての人間の欲を煽ろうと仮病を使う例の老人に、あなたを友人ではなく供の者だと思っているあの権力者に、いったいどれだけ時間を取られたのか。さあ、数えてみなさい」と具体的なエピソードを交えつつ、「時間を奪う他者」と「安易に時間を奪わせてしまうあなた」を容赦なく、セネカは口撃する。これまでに計画通りに一日を終えたことが何度あったか。自分で気づかぬうちにどれほど多くの人に人生を掠め取られたことか。いかにわずかなものしか自分には残されていないか──そうやって考えていくと、ご自分が天寿を全うしないうちに、すでに死にかけていることに気づくだろう、というのだ。

少々行き過ぎにも思えるセネカの言葉だが、これは「自分はできるのだからお前もちゃんとやれよ」というような類のお説教ではない。実はセネカは、パリウヌスへの手紙という体裁を取りつつ、自分に対して言葉を発しているのだ。なぜか。セネカ自身がまさしく「自分自身の用事でもないことに精を出し」、「他人の眠る時間に合わせて眠り」、他者に翻弄される人生を送った人物だからだ。そして「人生の短さについて」を執筆した後、彼は高い地位をなげうち、「自分自身のために生きる」ようになるのである。

パウリヌスは「パンとサーカス」で知られる食料配給の管理者
セネカが手紙を送っている相手であるパウリヌスは、セネカの妻パウリナの近親者(一説には、父親とも)といわれている。彼が就いていた仕事は、なんとローマ帝国の「食料管理官」。当時のローマでは社会保険制度として市民に食料を無料で配給する制度が存在しており、さらに競技場での剣闘士の試合などの見世物が無償で提供されていた。パウリヌスはそんなローマ帝国ならではの仕事を担っていたというわけだ。ちなみにこうした制度は「パンとサーカス」という言葉で後世にも知られ、生活の心配はないようなイメージを抱いてしまうが、実情は微々たる穀物配給だけではとても家族は養えず、市民は日々の労働や生活のための様々な用事に追われていたという。

歴代ローマ皇帝や権力争いに巻き込まれ続けたセネカの半生

セネカは紀元前一年ごろにスペイン・コルドバの地で騎士階級の裕福な家庭に生まれた。本人は哲学に強い関心を持ち、その道を進むことを望んでいたが、父が政治の道に進むことを切望していたことから断念。病気を経験しながらも努力を重ね、財務官や元老院議員に就任し、ローマ政治の舞台に立つに至る。
しかし、そこから彼は、皇帝や権力闘争する者たちの争いへと巻き込まれてしまう。セネカが財務官として活躍した時期は第3皇帝カリグラの時代。カリグラは傲慢にして嫉妬深く残忍、自分の気に入らない者は容赦なく死刑にしてしまう人物だったと伝えられている。セネカもまた弁論の才能をカリグラに嫉妬され、処刑される危機を危うく脱したこともあったという。
さらにカリグラ暗殺後に皇帝となった第4代クラウディウスの時代には、クラウディウスの妃メッサリーナと、ゲルマニクスの娘でカリグラの妹アグリッピーナとの争いに巻き込まれた。41年、アグリッピーナの妹ユリア・リヴィラとの姦通の疑いをかけられたセネカは、コルシカ島に追放されるのだ。
49年、メッサリーナが不義のために処刑され、後釜にアグリッピーナが座ったことで、セネカはローマに召喚され、再び自由の人となる。しかし今度はアグリッピーナの12歳の息子の家庭教師を務めるはめに。アグリッピーナはクラウディウスと直接の血のつながりをもたない我が子を次の皇帝にする準備に取り掛かっており、セネカの名声と政治能力を息子のために利用しようとしたのである。そしてこの12歳の少年こそ、「暴君ネロ」として後世の人々に認知されるに至る第5代皇帝ネロなのだ。(なお、長らく暴君の代名詞的存在であったネロだが、近年では再評価が進んでいる)

セネカに選択の自由はなく、彼はアグリッピーナに忠誠を誓う護衛隊長ブルルスと共にこの役を引き受けた。そして50〜55年は法務官職に就き、57年には執政官という最高の役職にとりたてられるなど、政治上でも重きをなす立場となっていく。また初期の皇帝ネロによる治世はセネカらの尽力もあって「ネロの五年間」と呼ばれる善政の時代であったと言われている。セネカは、そういう栄華と多忙を極める生活の中で、「人生の短さについて」を書いた。欲望に溺れること、ばたばたと仕事に追われること、他人の目を気にして神経をすり減らすことは愚かな人生の浪費─厳しい言葉の数々は、彼の心の叫び声であり、「俺はこんなことをしている場合なのか」という己への叱咤であったのだろう。
62年、セネカは政治生活から身を引く。直接的な背景としては、母アグリッピーナの過干渉に怒ったネロが自分の親族や側近者たちを次々と死刑にし、最後には母まで殺してしまったこと、セネカの政治的な影響力が次第に衰え、盟友ブッルスも逝去したことがあった。セネカはローマでも有数と言われた莫大な財産の献上と共に引退を申し出て一度はネロに断られるも決行。引退してからは、もっぱら思索と執筆の生活に入った。彼はこの間、睡眠時間を最小限に削り、起きている間中、思索と執筆、読書に精神を捧げた。「自然研究」「道徳についてのルキリウスの手紙」「神意について」「倫理哲学の書」「哲学の勧め」「結婚について」「友情について」などを執筆。セネカが閑暇の中で哲学に没頭することのできた、最も幸福で思想的な円熟した時期だったという。

自分の全時間を自分の必要のためだけに捧げ、毎日を人生最後の日のごとく大切にしているあの男は、未来を待ち焦がれることも、恐れることもありません。新たな喜びを未来に期待する必要などどこにあるでしょう? すでにどんなことをも知り、とことん味わい尽くしてきたのです。あとは、どのような喜びが待ち受けていようがいまいが、天に任せている。その人の人生は、もはや何ものにも傷つけられません。人生に何かが加わることはあっても、奪われるものは一つもないのです。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

超過密都市ローマの騒がしい生活
セネカたちが生きた当時、ローマ帝国は人口80万人超という大都市だった。地中海地域の都市の多くが数万人程度のコンパクトなものであったことと比較すると、いかにローマが巨大であったかが分かる。しかし人口に比べて市街地の面積は広いとは言えず、現代の大都市よりも数倍も人口密度の高い超過密都市だったそう。豪華な一戸建て住宅に住む一部の富裕者層は別として、多くの市民たちはインスラと呼ばれる壁の薄い高層集合住宅に住んでいた。ローマの街は日々喧騒にあふれ、セネカも著作「心の安定について」の中で、近所から聞こえてくる死者を悼む嘆きの声、玄関先を通り過ぎていく子供の葬列の音、建物が崩壊する轟音などに触れている。

過去を振り返られる人生を歩み
古の賢者をメンターにする

セネカは「人生の短さについて」の中で、「自分のために生きろ」というだけではなく、「どのように生きるべきか」についても説いている。時間のあり方を過去・現在・未来の3つに切り分け、過去を振り返られる人生を歩むことが重要であると。現在は短く移り変わり、未来は不確実であるのに対し、過去は何にも侵されない神聖な時間であり、欲望や不安、病気に悩まされる心配も、誰かに奪われる恐怖もない。永遠に所有できる素晴らしい財産だと語るのだ。

過去に属す時間は何日分であろうと、あなたの求めに応じて丸ごと現れ、あなたはそれを好きなだけ眺められるし、引き留めることもできます。ところが、多忙を極める人間にはその暇すらありません。悩みのない心穏やかな人間は、過去のあらゆる時間を再訪できますが、雑事に追われる人間は、まるでくびきをかけられたかのように、振り返って見ることができないのです。すると人生は深い闇へ消えていくことになります。たとえば、底のない器に水を注いでも溜まらないのと同じで、いくら時間が与えられようと、とどめておく場所がないのでは意味がありません。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

またセネカは、過去の偉人たちの書に学び、話し合い、身の上を相談し、人生の模範とせよ、と説いている。たとえばゼノンやピタゴラスやデモクリトス、アリストテレスと言った人たちで、現在に生きる人間であれば多忙で会えないこともあれば、その人との交際の中で散財や身の危険が起きることもあるが、過去の偉人は常に門戸を拓いてくれ、来訪者に何かしら得るものを与えてくれる、と。

その人たちをパトロンとする人間には、なんという幸せ、なんという魅力的な老いが待ち受けていることでしょう! 彼らには重要なことから些細なことまで何でも話し合え、毎日、身の上を相談できる人たちがいるのです。真実を問えば軽蔑せずに教えてくれ、お世辞抜きで本心から誉めてくれる、そして、人生の模範とすることができる人たちが。
(「セネカ著・浦谷計子翻訳「人生の短さについて」)

ルーベンスが「セネカの死」に行った“細工”
ルーベンスは、自身が手掛けた「セネカの死」において、伝えられている史実とは異なる細工を絵画の中に施している。セネカと同時代の歴史家・タキトゥスは「セネカは自殺の際に自らの血管を切った」と記しているのだが、絵の中でセネカの血管を切っているのは彼自身ではなく、医師なのだ。これは、敬虔なカトリック信者であったルーベンスが、キリスト教で禁止されている自殺のシーンを描かないことで、自殺の罪からセネカを救おうとした表れだったと言われている。セネカ自身はキリスト教徒ではないが、ルーベンスがセネカに対し強い敬慕の念を抱いていたことが窺える。

壮絶な「セネカの死」には
彼の生き様が込められている

自分のために時間を使い、自身の過去を見つめ直し、過去の偉人たちから学ぶ─ 理想の毎日を送っていたセネカだが、そんな日々は引退して3年後の65年に打ち破られる。貴族ピソを首謀者とするネロ暗殺の陰謀が発覚し、セネカも陰謀に加担したという嫌疑を掛けられたのだ。ある日セネカのもとに百人隊長が訪れ、自殺を命じた。セネカは毅然とした態度で命令を受け入れた。そして、遺言を残したいとの要求さえ拒否されると、友人たちに向き直り、こう述べたという。

「この通り、君たちの功績に酬いることを禁じられたので、私は今、私が持っている唯一のもの。最も美しいものを君たちに残そうと思う。すなわち、わたしの生きている姿だ。君たちがこれを記憶に留めておくならば、君たちのゆるがぬ友情に対する報酬として、高貴なる徳の名声を勝ち得るだろう」
( 中野孝次「ローマの哲人 セネカの言葉」)

さらに彼は、とめどなく泣き沈む者たちに向かって、泣くのをやめ、心の均衡を取り戻すよう求め、何度もこう問いかけた。

「不慮の災いにそなえて、あのように長年のあいだ訓練してきた心の備えはどこへいってしまったのだ。ネロの残虐を知らない者があったとでもいうのか? 自分の母と弟を殺害した後、ネロにとって、かつての教育者にして教師を殺す以外に何があるというのだ」
( 中野孝次「ローマの哲人 セネカの言葉」)

その後セネカは手首を切り、毒薬を飲み、ありとあらゆる手立てを尽くした挙げ句に死んでいった。そうして惜しまれつつ堂々と、壮絶に死にゆくセネカを描いた絵こそが「セネカの死」なのだ。なぜルーベンスの絵ではセネカは溌剌とした表情なのか。それは、セネカが今という時間を一瞬一瞬を大事に生き、目前の死にも毅然とした態度を貫いたからに他ならない。

「人生の短さについて」を読んで驚かされるのは、2000年もの時代を隔てていることをまるで感じさせないことだ。時に激しく、時として切々と「自分が大事だと思うこと」を訴えかける言葉には、今この場にセネカその人がいるような迫真力がある。また、独自の過去・現代・未来に対する時間観を述べた上で過去の偉人たちと触れ合う喜びを語ったりするなど、論理に振り切り過ぎない情感がセネカの文章には常にあり、それも大きな魅力になっているように思う。そうした言葉の力や、激烈な人生を背景に、「未来は頼りにすべきでない不確実なもの」「今を生きることの大切さ」を語る─様々な事象が複雑化し、「今」を不本意ながらもおざなりにすることも多い現代人にも、セネカの言葉は何らかの発見をもたらすのではないだろうか。

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