死と遺伝子なぜ生命は「寿命」を持つようになったのか

なぜ私たちの存在は、やがて消えゆくのだろうか。人は死んだ後、どうなるのだろう。永遠の無と暗闇が待つのみか、あるいは輪廻転生があるのか、それとも─人は最期の瞬間を迎えるまで、その答えを知ることはない。それがさらなる恐怖を人に植え付け、人々は永遠たる方法や死後の世界を探ろうとした。ある権力者は不老不死の薬を求めてかえって命を縮め、ある発明家は霊界との交信を可能にする機器を実現させようとした。しかし安寧に生きる者に死をもたらす「寿命」は、実は生命自身がつくりだしたもの。生化学者のニック・レーンは「進化の10大発明」の1つとして「死」を挙げているほどだ。「死」は私たち生ある者に、どのような価値をもたらしているのだろうか。

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センチュリー2022年5月号

人間が老化した際に起きる細胞の問題行動

私たち人間が「寿命」を迎える時、身体にはどのような変化が起きているのだろうか。細胞の機能から、その内容に迫ってみよう。人間の体には、約37兆個の細胞が存在する。たった一つの受精卵が細胞分裂を繰り返して成長するが、分裂に応じて細胞の数が増えてくると、それぞれの細胞が違う役割を持つようになり、体を形作っていく。これが細胞の分化で、以下のような細胞に分かれる。まずは組織や器官を構成する細胞。ただ、この細胞は数は多いが分裂する度に老化してやがて死んでしまうため、新しい細胞を生み出す器官が必要となる。その役割を担うのが、生涯生き続けて、失われた細胞を供給する幹細胞だ。心臓を動かす心筋細胞や脳・脊髄を中枢とし全身に信号を送る神経細胞も入れ替わることはなく、私たちの「心」を維持し続けている。そして卵や卵子を作る生殖系列の細胞がある。
細胞には、人体に悪影響を与え得るリスクを予め回避するシステムが働いている。その役割を担うのが「細胞の死」だ。細胞は生きていく上で酸素呼吸を行い、エネルギーを作るが、その副作用として活性酸素が生じ、時間とともに錆びついて、機能が低下していく。そこで細胞はある程度「老化」したところで、アポトーシス、つまり自ら死ぬか、免疫細胞により除去される。そうして新たなものに入れ替わることで、構成成分が劣化するのを防いでいるのだ。
しかし、人が年を重ねると、上記のような除去が起こらずに、老化した細胞がそのまま組織に留まるケースが増えていく。さらに悪いことに、こうした老化細胞は周りにサイトカインをばらまく。本来サイトカインは傷ついたり細菌に感染した細胞が、それらを排除するために炎症反応を誘導し、免疫機構を活性化する働きがあるのだが、老化細胞から放出された場合には、炎症反応を持続的に引き起こし、結果として臓器の機能を低下させ、糖尿病・動脈硬化・がんなどの原因となることが知られている。他にも要因はあるが、要するに人体が老化する中で細胞の機能が徐々に低下して、直接的に死をもたらす原因が生まれ、人は寿命を迎えるのである。

ゾウとネズミが生きる時間
▼一生の間に打つ心拍数を数えてみると、哺乳類ではどのような動物でもほとんど同じ──これは生物学の名著『ゾウの時間 ネズミの時間 サイズの生命学』にて取り上げられた、驚くべき事象だ。どの哺乳類も一生の間に約20億回心臓を打ち、約5億回の呼吸をするのだという。
▼物理的な時間で見れば、ゾウはネズミよりずっと長生きだ。しかし、心臓の拍動が時計であると考えたら、ゾウもネズミも同じだけの長さを生きて死ぬことになる。小さい動物は体内で起こるあらゆる現象のテンポが速い。つまり、一生を生ききった感覚は、ゾウもネズミも変わらないのではないか──そう同書には記されている。

生物によって多種多様な「寿命」を迎えるまでのプロセス

よりスピーディーに「寿命」を終える生物もいる。出芽酵母は2時間に1回の割合で分裂するが、18回の分裂あたりから急に遅くなり、20回で増殖を停止し、2日のうちに死んでしまう。昆虫の多くは、交尾の後に死ぬ。カゲロウの成虫には物を食べる口すらなく、すぐに死んでしまうのは有名な話だ。サケは川で生まれて海に下り、やがてまた川を遡上して出産を終えて死ぬ。ネズミの仲間は顕著に身体の能力が低下する老齢化のようなものはなく、死ぬ直前まで元気で、あるとき突然死する。動物は、生殖というゴールを通過すると寿命がきて死ぬケースが多く、プログラムされた積極的な死に方と言える。
このように見ていくと、生物にとって老死は避けられないもの──そう考えがちだが、実はそういうわけでもない。生物が生まれてから20億年間は、生物には寿命はなかったと考えられているのだ。現代でも、プラナリアには寿命がなく、条件次第でずっと生き続けると言われている。ベニクラゲもなかなか死なない生き物で、死なないどころか「若返る」力さえ持っている。一般的なクラゲは寿命を迎えたり傷ついたりすると死んで海に溶けていくが、ベニクラゲは命の危機を察知するとポリプという成体よりもいくらか前の段階に戻り、そこから再び大人へと成長するのだ。加えてポリプからは同じ遺伝子を持つ複数のベニクラゲが誕生するため、自分のクローンも増えていく。おそらくは生育環境が悪い中でも生き延びるための「生き残り戦略」だったのだろう。

新陳代謝、自己修復能力──
生物の寿命と機械の寿命の違い

「生命の寿命」は、「機械の寿命」と同等の性質を持っているように見える。新品の時はなんの問題もなくキビキビ動いていた機械が、時間とともに老朽化し、がたつき、エラーが増え、やがて完全に止まってしまう──そのようなイメージだ。
しかし、実際には生命と機械とでは決定的に異なる点がある。それは生命には新陳代謝があり、ある程度の自己修復ができるということ。そして「寿命」を迎えるまでのプロセスは種によって多種多様であり、ベニクラゲのように若返り、アクシデント死がなければ半永久的に生きられる進化だってできてしまうのだ。自己を複製する能力と言い、生命は驚嘆すべきポテンシャルを秘めた存在と言える。
だが、現在の多くの生物には「寿命」があり、死は避けられぬ運命となっている。なぜ生物たちは「寿命」を持ち「個体の死をプログラムする」道へ進んだのか。個体が寿命を持つことに、どのような利点があったのだろうか。

「コピーミスが進化をつくった」
生物の多様性の起源とは

生物の「寿命」について知る前に、その回答のヒントとなる、「生命がどのような進化を辿ったか」について見てみよう。かのリチャード・ドーキンスは代表作である『利己的な遺伝子』にて、「生物進化」を定義し得るものとして、以下のような飄々とした筆致で答えの一端を記している。

「宇宙飛行士がかなたの惑星に到達して生物を探せば、私たちには想像もつかないような奇妙、奇怪な生物に遭遇するかもしれない」「どこに住んでいようが、どんな科学的基盤を持って生きていようが、あらゆる生物に必ず妥当するようなものが何かないだろうか。たとえ炭素の代わりに珪素を、あるいは水の代わりにアンモニアを利用する科学的仕組みを持つ生物が存在したとしても、(中略)すべての生物に妥当する一般原理はないものか」「むろん私はその答えなど知らない。しかし、もし何かに賭けなければならないのであれば、私はある基本原理に自分の持ち金を賭けるだろう。すべての生物は、自己複製する実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である」
(『利己的な遺伝子』)

ちなみに、無性生殖を行う生物は分裂することで文字通り自身を複製する。前述したように、最初の生命が誕生してから約20億年間、地球にいた生物は細菌(バクテリア)などの原核生物であり、分裂により増えていた。そして環境の変化や飢餓などによる「アクシデント死」がない限りは生き続け、老いて死ぬことはなかった。
ただ、菌がずっと自身と全く同じ存在を複製するのみでは、いつまで経っても進化は起こらない。同じ菌が増殖し続け、生存している環境を埋め尽くすのみであるはずだ。なぜ生物はそこから多様な進化ができたのだろうか。
その鍵となるのが、「コピーミス」である。現在の生物のDNA合成酵素は非常に高い正確性を持っており、10億塩基に1回程度しかミスがないという。このような正確きわまる合成能力は、一気に成し遂げたのではなく、進化の過程で徐々に正確性を高めてきた(進化学的には、より正確なものが選択されて生き残ってきた)。そのためおそらく、生物が誕生した初期の生物の複製における「コピーミス」は、今より遥かに多かったと考えられている。

「印刷技術の発明以前、福音書などの書物が手書きで写本されていた時代を考えてみよう。筆写者たちはみな注意深かったはずだが、必ずやいくつかの誤りがあったはずだし、なかには、故意に少しばかりの『改良』を加えてはばからぬ者もいただろう。彼らがみな一つの原本から写したのであれば内容がひどく曲解されることはなかったかもしれないが、写本からコピーし、そのコピーからコピーするというプロセスを繰り返すならば、誤りは累積し始め、深刻な事態に陥る」
(『利己的な遺伝子』)

しかし、こと生物に関して言えば、「コピーミス」は進化にとって良い、というよりも必要不可欠な要素だった。もちろん、悪く作用して生き延びられない異常な細胞を作ってしまう例も多々あっただろう。だが一方で「良く作用」して、環境の変化があったときに変化に耐えられるもの、効率良く増えるものが生まれることもある。結果、異常な個体、長く生きられない個体が淘汰され、「良く作用した」個体が残る。さらにその子孫でも同様の現象が起き、徐々に「より環境に即した生物」が残り、そうでないものは消えていく、というわけだ。上記の写本の例で言えば、筆写者による改変により異本が生じ、様々なバリエーションが生まれていく中で人気のあるものが選ばれ、「洗練」されていく。そうしてもっとも多く写された系統の本が「流布本」として後世に残る一方で、それ以外のものが廃れ、人々の記憶から忘れ去られるのと似ているかもしれない。

異者との共生の痕跡
▼生物進化の上では、他の生物を「取り込む」ことも重要な要素だった。20億年前には真核細胞の祖先がプロテオバクテリアを取り込み、それがミトコンドリアとなった。10億年前には植物細胞の祖先がシアノバクテリアを取り込み、それが葉緑体になったと言われている。動物や植物の一器官が、かつては別の生物だったと考えると、不思議な心持ちがしないだろうか。

“生物は自分と似ていて、違った複製を作る必要がある”

さらに生命誕生から20億年後には、遺伝子のセットを2つ有し、有性生殖を行う2倍体生物が登場する。細菌も遺伝子をシャッフルし、多様性を創出するようになったが、2倍体生物は、いわば「違った複製」を作るエキスパートだ。自分の持つ遺伝子と、もう片方の遺伝子の2つをまぜこぜにすることで、より巧みに「多様性ある個体」を生み出す。
そうすることで、「足が速い」「身体が大きい」「寒さに強い」といったバリエーションを生むことができるのである。こうした多様性が、劇的に住環境の気温が下がるなどの異変が起こったときに「寒さに強い」個体が生き残り、巨大な捕食者が現れたときであれば「足が速い」個体が生き残るというように、種全体が全滅するリスクを下げ、環境に即したものが繁栄していった。つまり生命とは「自分と同じ物を作る」ことと「自分と違う物を作る」相矛盾する二つの性質で以て進化してきた存在なのだ。細胞機能構造学を専門とする中屋敷均教授は、著書『生命のからくり』にて、このように語っている。

「自分と同じ子孫を作ること、すなわち自己複製は、種の存続を支える大切な性質であり、どんな生き物も自分とよく似た子供を作る。しかし、一方、猿から進化して人類が出現したり、環境の変化に対応した変種が現れるような『自分とは違った存在』を作り出していくのも、また生命に欠かせない特徴である」
(『生命のからくり』)

後進の生物のために─それぞれの死が果たす役割

生物が進化していく上では、「違った複製を生むこと」以外にも重要な要素がある。その一つこそが「生物の死」なのだ。これは生物誕生前の話だが、RNA(リボ核酸)がその例の一つ。最初の生命の「素」は、DNAに似た単純な構造の物質・RNAだったと考えられている。RNAは自身と同じ塩基配列を持ったRNA分子を生産できる「自己複製」と、その並び順を変える「自己編集」の能力がある。いったん自己複製型のRNA分子ができると、より増えやすい配列や構造を持つRNA分子が材料を独占し、他の分子が資源を独占し、ますます生き残るような「正のスパイラル」がRNAをさらに進化させ、生物誕生の基礎をつくっていった。ただし、この正のスパイラルが起こり続けるためには、常に新しいものを作り出す安定した材料の供給が必要だった。そして、その一番の供給源がRNA自身だったのだ。分解されたRNA、いわば“死んだRNA”が新たなRNAの誕生を紡いできたのである。
また、生物が誕生した後も、生まれた生物が安泰なわけではなく、別の生物に取って代わられる「絶滅」が幾度も起きた。隕石衝突やプルームの活動など、環境変化による大量絶滅は多くの生物を根絶やしにするが、環境劣化の原因が消え去り、生き物が暮らしやすい状態になれば、生き延びた僅かな生物が急速に繁栄し、生態系を刷新する。6550万年前にはおそらく小惑星衝突によりそれまで栄えていた恐竜が絶滅し、ニッチを埋める形でまずは体長2mほどの巨鳥が台頭して繁栄。さらに後世には哺乳類が勢力を伸ばし、人類誕生につながっていった。
つまり、新たな進化をつくるためには、「古いものが死ぬことによる新陳代謝」が必要となる。これは、個体で見れば古い細胞が死に、新しい細胞が生まれて「入れ替わる」ことで個体が維持される関係と酷似している。細胞が新陳代謝して個体を生かし、個体が新陳代謝して種を生かし、種が新陳代謝して生物全体を進化させる。生物とはそうした新陳代謝の連鎖の中にある存在とも言えるのである。
なお、生物が「寿命」を持つ理由としては、他にも説がある。その一つが「蓄積した傷をできるだけ受け継がないようにするため」とするものだ。
実はDNAは、普通に生活していても、紫外線や、体内に発生する活性酸素などにより日々傷ついていく。これらの傷を放置しておくと生命活動に支障が出るため、修復酵素によって絶えず修復されるが、その中でもわずかな傷は修復されずに残ってしまう。つまり、長く生きた個体の遺伝子ほど、傷が多くなる傾向にあるのだ。こうした個体の生殖細胞を使って子孫をつくるとさらに傷がたまっていき、その生物種は最終的に絶滅する可能性が高くなる。これを安全に回避する方法として、「古い個体を必ず死ぬようにプログラムしている」と考えることができるのだ。
興味深いのは、このDNAの傷が、がん細胞につながるなどのリスクを孕んでいる一方で、生物の設計図による遺伝情報の書き換えにより、時として新たな変化を生み、進化を促す側面もあるということ。「禍福は糾える縄の如し」といった言葉があるが、賽を振るまでは善悪定かならぬほんの少しの不確定要素こそ、この世界に持続的に変化をもたらす上で、不可欠なものなのかもしれない。

消えゆく人間が残せるものは
▼生物と寿命についての物語はいかがだったろうか? もしかしたら、「個体が死ぬ」ことへの不安を埋めるものではない、と思われたかもしれない。永遠にも思えるほどの長きにわたる命のリレーは意義深いが、私たちはそのリレーをいつまでも追うことはできない。結局はやがて消えゆくに過ぎない儚い存在なのか、と。そこで最後に、本文でも挙げたリチャード・ドーキンスの書物『利己的な遺伝子』を紐解きつつ「有限たる存在である人間の価値」についての話をしよう。
▼『利己的な遺伝子』が刊行されたのは1976年のこと。瞬く間に世界的ベストセラーとなった同書は、50年近く経った今もなお、人々に鮮烈な印象を残している。本人曰く「専門用語を排し、イマジネーションに訴えられるように書いた」という同書は、語られる内容も相まって、SFやミステリーのような味わいや驚きに満ちていたからだ。
▼同書の土台にあるのはチャールズ・ダーウィンが提唱した進化論の中にある「生物の様々な行動や生態は、子孫をできるだけ多く残すためにある」という考え。ドーキンスはこの考えをさらに推し進め、餌を取ったり縄張りを防衛したり、生殖活動や子育てをしたりといった行動は、自身の遺伝子をできるだけ多く次世代に残すよう、遺伝子にプログラムされたものである、とした。そして生物は遺伝子という利己的な分子をやみくもに保存するべくプログラムされた乗り物──「生存機械」であると表現したのである。
▼この考えは斬新ではあったが、それだけでは説明がつかないこともあった。例えばLGBTや独身主義といった人たちの価値観や行動は、「遺伝子をやみくもに保存する=子孫を残す」というプログラムされた欲求とは真っ向から相反することになる。おそらくはこの点を説明し得るものとして、ドーキンスは「文化や風習やイメージ、モード、思考のようなものは、遺伝子のように伝わるのではないか」という概念を提唱し、その伝わる「自己複製子」を“ミーム”と名付けた。
▼人は言葉や文字、絵や音楽、映像などにより、自身の創造物や考えを子孫に伝達することができるが、こうした創作物から「壺の作り方」や「アーチの建造法」などのノウハウ、「独身主義」などの概念までもがミームである、という。ミームは脳から脳へと渡り歩き、広まって自己複製する。そして時として、「独身主義=自身の遺伝子を後世に残さない」例のように、「利己的な遺伝子」と対立することもある、としたのだ。「私たちが死後に残せるものは遺伝子とミームの2つである」──そうドーキンスは語っている。
▼こうした「遺伝子やミームを残したい」という思いは、私たちが有限な存在であるが故に、より強いものになるのではないかと、筆者は素人考えを持っていたりする。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があるが、自分の住処が全てだと思い込む視野の狭さを指すこの言葉は日本に伝わった後、「されど空の深さ(蒼さ)を知る」という一節が加えられた。それにより、「一つのことを突き詰めれば、より深い知識を得ることができる。また、その人だけが知っている世界がある」といった意味が付加されたのだ。これは世界の広さのみならず、生きる時間の長さにも当てはまるように思う。短い一生であるからこそ、自分の生きた時代を深く知り、愛することができる。物が有限であることの儚さ、尊さを知ることができる。限られた時間の中で、時に道に迷いつつ、後悔しつつ、自分が残したいもの、深めるべき道を見つける──それが人の生き甲斐と呼び得るものであり、有限たる者の素晴らしさではないかと、考えたりするのだ。

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