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絵画から聞こえる無言の語りかけ──『戦没画学生慰霊美術館 無言館』

長野県上田市にひっそりと佇む美術館がある。戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵の道具・手紙などを収蔵する『戦没画学生慰霊美術館 無言館』。館主である窪島誠一郎氏が、画家・野見山暁治氏との出会いをきっかけに全国を旅して、戦没画学生たちの作品を集め、設立した。今回は、そんな窪島氏へのインタビューを基に、同館が無言で伝えるメッセージに迫る。

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センチュリー2022年6月号

戦没画学生慰霊美術館 無言館の外観と館内前の小道と林の写真

●長野への旅●

4月某日。特急しなの3号から篠ノ井駅に降り立った時、真っ先に感じたのは刺すような寒さだった。生憎の天気だったということもあるのだろう。切符を手に乗り換えのホームを探していると、改札口付近で5〜6人の行列が出来ていた。近づいてみると、どうも全員が特急しなの3号の乗客だったらしく、それぞれが次の行き先を窓口の駅員に伝えている。「軽井沢」「上田」と聞こえてきて、どうやらここで乗り換えの切符を買わないといけないようだ。列の後ろに並び、財布を取り出そうと鞄を開けると、普段大阪で使っているICカードが目に入った。この場所ではまったく役に立たない代物だ。ふと、そういえばそうだったな、と思う。高校卒業以来、地元であるここ長野県で電車に乗ることなんてほぼ無かった。切符を買った後ホームに向かう。相変わらず空は曇天で、今にも雨が降りそうだった。もう少し厚着をしてくるべきだったな、とその時少し後悔した。

 上田駅に到着後、さらに上田電鉄別所線に乗り換えた。2両編成のワンマン運行だ。電車の前のほうに両替機がある。まだあったのだな、とぼんやりと思う。いや、私が乗っていたワンマン列車は、1両編成だった。小さな箱のような列車で、地元を出てから「こういう列車があるんだよ」と周囲の人に言うと、大層驚かれたものだ。

 20分ほど列車に揺られてから、中野駅で降りた。そこは無人駅で、周囲には田んぼや畑が広がっており、所々に住宅の塊が点在していた。生粋の都会育ちであれば、この光景は新鮮なものだったのかもしれない。ぽつぽつと雨が降り出して、慌てて鞄から傘を取り出した。周囲は静かで、人っ子一人いない。時々、鶏や牛の鳴き声が聞こえるくらいだ。そういえば、幼いころはこういう場所を歩いていると、世界で自分一人だけになったような気がして嬉しかった。でも、暫くすると寂しくなって、自宅に帰って飼っていた猫を抱きしめた(尚猫は非常に嫌そうだった)。

 30分ほど歩いた後、息を切らしながら坂を上っていくと、灰色の建物が見えてくる。コンクリート打ちっぱなしのその建物は、木々や山々に囲まれた中でどこか異彩を放っているようにも見えた。だが、不思議とその風景に溶け込んでいるようにも見えた。『戦没画学生慰霊美術館 無言館』は、静かにそこに佇んでいた。

『無言館』展示室
『無言館』展示室

●物言わず佇む美術館●

 2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが、世界中を震撼させた。遠い昔の出来事だと思っていた“戦争”が、身近なものだと痛感させられた。かつての敗戦国である日本に住んでいる身として、遠い昔のことだけど、忘れてはならないこと。それでありながら、何処か口にするのが憚られる“タブー”のようにも思えていた。しかし、戦争は現実のものとなり、経済他様々な面において、少なからず影響が出ている今、私たちにとっても対岸の火事ではない。連日報道されるウクライナ侵攻のニュースを聞いて、ふと思い出したのが『戦没画学生慰霊美術館 無言館』だった。幼いころ、それこそ20年ほど前に、一度父に連れられて足を運んだことがあった。自然豊かな場所にあり、幾本もの筆が並べられていたことを覚えている。戦争反対。平和への祈り。そういった言葉を見る機会が増えていく中で、ただ漠然と、戦争というものについて見直す一つの機会になるだろう。そんな想いで、20年ぶりに無言館に足を運んだ。

 出入り口にあたる木製のドアは、美術館の入り口というよりは、誰かの自宅の玄関のようだった。だからかは分からないが、最初はドアを開けるのを少し躊躇した。ほんの少しだけ勇気を出して、館内へと足を踏み入れる。館内もまたコンクリート打ちっぱなしで、多数の絵が秩序正しく並べられていた。自分が動く度に、足音や衣擦れの音が響く。十字形の建物の中で、その音は何処か異質なものに感じられた。そうだ、そういえばこんな場所だった。そう思うと同時に、初めて訪れた時とはまた違う、何とも言えない感覚に襲われる。それが何なのか、その時はまだ分からなかった。

●画学生たちが描いたもの●

 『戦没画学生慰霊美術館 無言館』は、太平洋戦争で亡くなった画学生たちの絵が収蔵されている私設美術館だ。絵の道を志し、『東京美術学校(現・東京藝術大学)』などで学んでいた画学生たちの、多数の作品や遺品が展示されている。私個人は絵について詳しいわけではなく、出来不出来は正直よく分からない。ただ、確かにいわゆる巨匠と呼ばれる画家たちと比べてしまうと、まだまだ発展途上と言って差し支えないだろう。逆に言えば、発展途上だからこそ、可能性は無限大に広がっているはずだった。作品にはキャプションが添えられており、作者名と経歴、そして享年と死因が書かれていた。享年は、ほとんどが20代であり、時々30代や10代の方も見られる。同世代や年下の若者たちが、こんな風に戦火に散っていったのか─最初は、戦争の惨さにただただやるせない思いを抱くのみだった。

 前々から、無言館を訪れた際には、ちゃんと観たいと思っていた絵があった。中村萬平作の「霜子」という作品だ。萬平は一九一六年に静岡県浜松市に生まれ、一九三六年に東京美術学校油画科に入学。在学中にモデルを務めてくれた女性・霜子と結婚。この時代、画家のモデルをやっているというだけで周囲からは白い眼で見られ、萬平と霜子の結婚は周囲から反対されていたという。「霜子」は、何処か可愛らしく、そして美しい裸体の女性が描かれている。その表情は、まるで戦争の最中にいるとは思えないほどに穏やかで、凛としたものだった。

 「霜子」が描かれた時、霜子はお腹に二人の子を身ごもっていたという。その絵は、ただ一人の女性が描かれていたのではなく、夫婦の宝物も一緒に描かれていた。そして、この絵を描いている時間は、家族三人で過ごす幸せな一時だった。「霜子」は、そのかけがえのない一時を描いた絵なのだと、そう感じられた。

 東京美術学校を卒業後、萬平は一九四二年に入営し、同年身重の霜子を残して中国・華北に出征する。そして、戦地から身重の妻やその世話を頼んでいた両親に向けて何通も手紙を送った。

みな元気でいるか。こちらも元気でやっている。訓練中は辛いが、今暫くの辛抱と頑張っている。訓練の合間合間に画も描くが、此の頃は体力の消耗を防ぐためにスケッチ丈にしている。気掛かりといえば、霜子の体と赤のことだけだ。くれぐれも大事にしてくれな。

其の後の様子はどうか。お父さんお母さんおばあちゃんと仲良くやってくれてるだろうな。お腹の赤はあばれるだろう。俺にかわって親孝行と赤を大事にそだてるのとを引き受けてくれ。余分な心配はせぬよう体に心掛けねばならぬよ。

 霜子の返信も、一通だけ残っている。

あなたもきっとそれを喜んで下さると思います。北支にゆこうと何処にゆこうと、どうぞあの様にお元気でいらして下さい。私は一生懸命に神様にお祈りしますから。赤ちゃんはとても手におえない程に元気にあばれ廻っております。

 萬平が戦地に発った後、霜子は男の子を出産。しかし、その後半月ほどで、産後の肥立ちが悪く霜子は他界してしまう。我が子の誕生と妻の死を同時に知った萬平は、次のような手紙を両親に送っている。

昨夜、兵舎の窓にのぼった満月がことのほか白くかがやいているようにみえました。それは、今までみたどの月よりも心にしみわたるうつくしい光りの月でした。あれは霜子が天に召されたことを知らせる満月だったのですね……。

 この手紙が送られた後幾ばくもなく、萬平は野戦病院で戦病死する。享年26歳。萬平は、ついぞ我が子を抱くことはなかった。

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 あと五分、あと十分、この絵を描きつゞけていたい──

 出征兵士を送る日の丸の小旗がふられる中、日高安典はそう家族に告げた。それが、彼の最後の言葉だった。

 安典は、一九三七年に東京美術学校に入学し、一九四一年に繰り上げ卒業させられて、翌年満州へと出征した。その直前まで描き続けていたのが、恋人である女性を描いた「裸婦」だ。安典は、「生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから」と女性に言い残して出征したという。そのためか、この作品には署名がされていない。

 安典の遺品となった日記帖やスケッチ帖には、彼の叫びにも似た詩や言葉が書かれている。

 秋立つ鳥の飛ぶ方を見よ

 秋立ちていつ帰りこん 迷い鳥

 秋立ちていつ帰りこん ツンドラの苔

 これは、「兵営日記」と題されたノートの最後の「八月二十六日」のページにつづられていた詩だ。そして、スケッチ帖の余白には次のように書かれていた。

 小生は生きて帰らねばなりません

 絵をかくために

安典が駐屯していたバギオは、ルソン島でも最大の激戦地だった。これらの言葉は、死地に身を置いていた安典の叫びだ。明日、否、一瞬先に自分が生きていられる保証はない。自身の行く末を悟りながらも、彼は必死に抗おうとしていた。絵を描きたい。その一心で。

 安典は、一九四五年にルソン島バギオにて戦死したとされている。享年27歳。家族のもとには、その名が書かれた小さな紙切れが入っているだけの、白木の箱が一つ届けられただけだった。

●向き合うこと●

 無言館の作品を観ているうちに、私の心の中で浮かんできたのはたった一つの疑問だった。画学生たちは、一瞬先にも生きていられるか分からない、そんな状況下で、“絵を描く”ことにどうしてここまで直向きになれたのだろうか。

 脳内でそんな疑問が渦巻く中、私の中には「戦争」「平和」「反戦」などという言葉はすっかり消えてしまっていた。抱いた疑問への答えを探していると、何故か浮かんできたのはこれまでに出会った人々、そして自身の半生だった。両親、友人、恩師、同僚、上司。決して長いとは言えない人生だが、それでも数え切れない人々が関わっている。それは、否定したくてもできない事実だった。私は今何をしているのだろう。私は何故生きているのだろう。たった一つの疑問がぐるぐると大きくなり、否が応でも、これまで遠ざけていたものと向き合うこととなった。

 そんな私の疑問に対して、無言館館主の窪島誠一郎氏は「命を燃やすほどの何かに出会えてないからじゃない」と答えた。インタビューの最初で、私は自分の中で沸き起こった疑問を口にしてはいけないと思い、取り繕うように無難な質問を窪島氏に投げかけた。窪島氏はそれを見透かしたかのように、「つまらない質問じゃなくて、貴方が作品を観て感じたことを素直に教えて」と私に問う。その言葉に、何かが決壊するように、私の中でぐるぐると渦巻いていた疑問を吐き出した。何を言っているのか自分でも分からなくて、これじゃあインタビューじゃないじゃないかと、何処か情けなさを感じている私の言葉を、窪島氏は最後まで聞いてくれた。

 「ここに来た人は、一度目に『戦争は惨い』『画学生がかわいそう』と口にする。二度目には、『最期まで絵と向き合った彼らに対して、自分にはできない』と感じる。一種、羨望や嫉妬にも似た感情を抱くんだよ」と窪島氏は語る。そして、「この美術館は、罪深い場所なんだ」と続けた。

 窪島氏は一九四一年に生まれて間もなく実の両親のもとから離れ、靴屋を営む義父母のもとで育つ。戦後の高度経済成長期にはスナックを経営していた。その中で村山槐多の絵と出会ったことで絵画の魅力に取り憑かれ、村山槐多や関根正二などの絵を収集し、画廊経営を経て『信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)』を開館。その後、画家・野見山暁治との出会いをきっかけに、戦没画学生の作品を収集する旅に出る。そうして集められた作品を展示しているのが『戦没画学生慰霊美術館 無言館』だ。

 「この美術館は、作家本人の許可を取っていない。だから、本来彼らが望んでいない美術館であり、存在しなくて良い美術館なんだ」と窪島氏は語る。そして、「彼らは、『反戦』だの『平和』だのということを語りたいがために絵を描いていたのではない。彼らの絵を表層的にだけ観て、『可哀相だ』と語るのは、彼らへの侮辱なんだよ」と続けた。

 分かる気がした。彼らは、作品を通して戦争の何たるかを伝えたかったわけではない。今この一瞬を生きている、その証を求め、残そうとしたのではないだろうか。

 「画学生たちの絵を通して、僕は自分への問いと向き合い続けた。顔も覚えていなかった生みの両親、戦火の中や戦後の動乱の中で育ててくれた義両親。僕は50歳を超えてから、ようやくそういった人々と向き合うこととなったんだ」。そして、と窪島氏は続ける。「野見山先生は、ご自身が出征して、仲間の画学生の死を目の当たりにしてきた。僕は先生ほど戦争を体験しているわけではないし、何なら戦後の高度経済成長期の甘い汁を吸ってきた人間だ。野見山先生の心の中には、先生の美術館がある。そこに、僕は土足で上がり込んでいるんじゃないかってね」。だから、と窪島氏は続ける。「絵を集めている間は、反戦とか平和とか、そんなことについて考えなかった。でも、こうして美術館として形にしていくことで、社会性を突きつけられたんだ。『反戦』『平和』ということについて、考えざるを得なくなった」。そして、「僕は、この美術館を訪れる側になりたいよ」と笑った。

『無言館』第二展示館
『無言館』第二展示館

●自問坂●

 窪島氏は、画学生たちの作品について「人の通らぬ道に咲いている花」と表現した。ただ直向きに、“絵を描く”ことと向き合い続けていた。彼らにとって、それはつまり生きることだった。画学生たちの生身の生命が消えたとしても、作品があれば生き続けている。そんな一つひとつの作品が一堂に会した時、それはまるでオーケストラのように、大きな響きとなる。「画学生たちの作品を集めているころ、ふと夜に彼らの作品たちを見ると、何か圧倒されるような空気を感じたんだ。『描きたい』って。この美術館は、彼らだけが生み出せる、彼らだけの空間なんだよ」と窪島氏は語る。

 作品を観て沸き起こった疑問の答えは、まだ見つかっていない。きっと簡単には見つからないのだろう。そう窪島氏に告げると、氏は一つ頷いた。ただ、一つだけ感じたことがあり、ふと「人は、一人では生きられないのですね」と口にする。画学生たちが描いたのは、家族や恋人など、彼らが愛した者たちだった。そして愛した者たちは、戦火や戦後の動乱に見舞われながらも、画学生の絵を守り続けていた。窪島氏は「そうだね。僕は、それに気づくのに、随分と時間がかかってしまったよ」と答えた。

 インタビューの最後に窪島氏は、「貴方はまだ若いから、もし僕が死んだら、『あの時あんな話をしたな』って思い出して、少しだけ悲しんでくれたらそれで良いから」と、おどけたように言った。そして、「さて、悩み、迷いながら帰りなさい」と笑顔を見せた。

 無言館から帰る坂道には、「自問坂」と掘られた石碑が立っている。自身は何故生きているのか、今何をしているのか、何をしたいのか。そんな疑問をぐるぐると脳内で反芻しながら坂を降りていった。

 何千、何万と数えられる歴史の中で、僅か百年にも満たないほどの昔、自身の命を燃やし尽くして、絵を描き続けた若者たちがいた。彼らの生命の時間は、その作品に確かに刻まれている。作品は言葉を発しない。だが、それらは私たちに静かに問うている。その問いの答えは、今を生きる私たちが忘れかけているものなのかもしれない。

『戦没画学生慰霊美術館 無言館』
長野県上田市古安曽字山王山3462
開館時間:9時〜17時
休館日:火曜日

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