渋沢栄一と鉄道 進取の精神で時代を切り拓く
鉄道黎明期に渋沢栄一の功績あり
明治から大正にかけ、設立に関わった企業は約500──これが、渋沢栄一が「日本資本主義の父」と呼ばれる所以である。彼が設立に関わった企業の中には、『日本銀行』をはじめとする金融・保険分野や、全国の都市ガス会社や電力会社といった、現代社会においてもインフラを担う企業が多く含まれている。重要なインフラの一つである、全国の鉄道事業に深く携わったのもまた、栄一だ。彼が生きた明治から昭和までの激動の時代、全国各地で鉄道網が整備された。現在のJRで言えば、『JR東日本』や『JR西日本』、『JR東海』、『JR九州』の前身の設立に関係している。JRの路線の大部分は、ルーツをたどると栄一の関連企業に行き着くということから、日本における鉄道黎明期に彼がいかに貢献してきたかが窺える。
欧州での「乗り鉄」が原点
栄一と鉄道の出会いは、1867(慶応3)年。15代将軍の徳川慶喜は弟の昭武をフランス・パリで開催される万国博覧会に派遣するにあたり、栄一を会計担当・世話係として同行させることにした。その時、エジプトのスエズからアレクサンドリアまで鉄道に乗車したのを皮切りに、万博閉幕後にはヨーロッパ各国を汽車で周遊したのである。近代文化に触れる中で鉄道の利便性の高さを実感し、日本でも鉄道整備を進め近代化を図っていく必要があると確信したのだった。
帰国後、栄一はすぐさま動く。新政府において国内の鉄道建設等に精力的に取り組んだ。1872年には東京・新橋 ─ 横浜間が開業し、89年には新橋 ─ 神戸間の東海道線が全通するなど全国に鉄道網が整備された。一方で栄一は、中央と地方のバランスの取れた発展には民間資本による鉄道整備が必要不可欠と考えていた。その足掛かりとして、1875年に新橋─横浜間を走る官営鉄道の払い下げを目論み、『東京鉄道』を立ち上げるものの、売却は実現せずに会社は解散してしまう。それでも栄一はめげずに1881年に日本最初の民営鉄道としても知られる『日本鉄道』を設立。その後、全国各地に私鉄が誕生するきっかけとなった。
困難を極めた京阪間の新路線計画
栄一が関西でまず目をつけたのが京都 ─ 大阪間。当時はすでに淀川西岸に沿って国が建設した東海道線が存在しており、これが京都と大阪を結ぶ唯一の鉄道であった。そこで栄一らは京都市内を起点に、鉄道の空白地帯となっていた淀川東岸を走って大阪に至る新路線を計画。江戸時代に賑わった京街道にほぼ沿ったルートで、伏見、淀、枚方、守口といった旧宿場町を通ることとなる。繁華性の高い東岸の路線は、東海道線と比べてより利便性に優れた交通網になるのではないか── 栄一は、その可能性に賭けたのだった。
1895年、栄一らは「近畿鉄道」の名称で鉄道事業の認可を申請。だが、「東海道線と競合する」という理由で許可を得ることはできなかった。その2年後には、「京阪鉄道」として再申請を行い、仮免許の取得までたどり着いた。そこに待っていたのが、大恐慌。その煽りを食らい、思うように株主が集まらず、1902年にあえなく免許は失効してしまうのであった。栄一が思い描いた新路線計画は再び暗礁に乗り上げた。
3度目の挑戦、実る
栄一は決して諦めることなく、挑戦を続けた。当時ライバル関係にあった関西の財界人グループと手を組んだのである。1906年、『阪堺鉄道』(後の『南海電鉄』)創立を主導した松本重太郎らと共に行った申請が受理され、ついに特許状が下りた。それを受けて発起人総会が開催されることとなり、栄一が創立委員長に就任。実業界での実績や人脈が豊富な彼をトップに据えることにより求心力が生まれると考えられたのだろう。同年11月には社名を『京阪電気鉄道』とすることが決定。3度目の挑戦で、栄一の想いが結実したのである。
栄一を突き動かしたものとは
栄一が10年の歳月をかけ、3度の挑戦をしてまでも、京阪電気鉄道の設立にこだわったのはなぜだったのだろうか。新路線計画にあたって栄一らが記した「近畿京北両鉄道敷設発企ノ旨趣」に、その答えが存在していた。先述した通り、京阪電気鉄道が開通する以前の京阪間の鉄道ルートは、官設の東海道線のみ。経済発展がめざましく、人とモノの往来が活発になってきていた近畿地方の交通網としては限界が見えている。いずれ輸送力不足が課題になるのは明白だった。
栄一はこれを「国利民福(国家の利益と国民の幸福)ニ関係スル」課題と考えたのである。そこで民間資本による鉄道整備で課題を解決し、地域住民の暮らし、そして地域全体の発展に貢献すべく行動したのだ。栄一の卓越した先見の明と、「地域社会のために」という揺るぎなき信念── それこそが、今日まで続く京阪電鉄の礎になったと言える。
京阪に受け継がれた栄一のスピリッツ
「自ら箸を取れ」── 栄一は自らの著書「論語と算盤」において、困難な中でも進んで行動を起こすことの大切さを説いた。その進取の精神は、彼が初代相談役に就任した京阪電鉄にも脈々と受け継がれていく。
同社が紡いできた歴史は、挑戦の歴史でもあった。設立から8年が経った1914年には日本初となる急行電車の運転をスタート。それまで100分かかっていた天満橋(大阪)― 五条(京都)間をノンストップ60分で結び、大幅な高速化を実現した。さらに1930年からは子会社である『新京阪鉄道』が「超特急」を運行開始。表定速度で時速72.7キロは当時の国内トップの速さだった。
さらに、今や『小田急電鉄』の専売特許と言っても過言ではない「ロマンスカー」(座席指定特急列車)のルーツは、京阪電鉄にあるということをご存じだろうか。1927年に登場した「1550型」は当時珍しかった転換式のクロスシート(座面部分は動かず、背もたれを前後にスライドさせて前後座席の向きを変えるタイプ)を採用。当時、「二人相乗り横掛座席」を備えた「ロマンスカー」と宣伝していた、ということがロマンスカーのルーツと言われる所以だ。
京阪の代名詞 テレビカー誕生秘話
『京阪』といえば「テレビカー」をイメージする方が多いのではないだろうか。テレビ付き車両「テレビカー」は、サービス向上を目的に京阪沿線に本社のある『松下電器(現・パナソニック)』の協力のもと、1954年に運行を開始した。当時は庶民にとってテレビは憧れだった時代。人気を集めたのは言うまでもない。京阪がテレビカーを投入した背景には、京都 ─ 大阪間の国鉄(現・JR)と阪急、そして京阪の三つ巴の熾烈な顧客獲得競争がある。
直線ルートが多く所要時間が短い国鉄・阪急に対して、カーブの多い京阪はスピードで太刀打ちすることが難しかった。そこでテレビカー導入により車内の快適性向上を図ることで、ライバルに対抗しようというわけだ。
ここにも、進取そして挑戦の精神で以て道を切り拓いていかんとする京阪の姿勢が窺える。挑戦の裏には苦労も多かった。1963年にターミナル駅を大阪のビジネスエリアの中心・淀屋橋に延伸した際、地下線のため電波が届かないという課題に直面。だが同社は独自にトンネル内にケーブル線を整備し、テレビの受信を可能とした。
実は京阪以外にもテレビカーを運行する鉄道会社は存在していたが、技術的な問題を抱えて断念するケースが多かったという。
一方、京阪では高速で移動する電車内でもテレビの映像が乱れないよう技術者の弛まぬ努力が続けられた。そうして「京阪=テレビカー」というブランドイメージが確立されていく。その後、スマホの普及など時代と共に娯楽のかたちが変化したこともあり、2013年に惜しまれつつテレビカーの役割は終えることとなったが、テレビカーに息づく京阪の進取、挑戦、努力の精神は沿線住民をはじめこれからも多くの人の心に刻まれ続けることだろう。
「かの力」ではなく「との力」
1909年、栄一は京阪の相談役を辞任し、1916年には実業界から身を引いた。それから100余年── 。コロナ禍で多くの鉄道会社が苦境に立たされている。京阪電車も例外ではない。利用客減少を受けて、2021年9月には運行本数を最大20%削減する過去最大の減便を実施する予定だ。収束の出口が見えない中、鉄道会社はどのような道を進んでいくべきなのか。ライフスタイルが大きく変わる中、アフターコロナを見据えて鉄道はどうあるべきなのか。もし栄一が現代に生きていたら、どのようなアドバイスを送るだろうか。
100年以上読み継がれてきた、栄一の著作「論語と算盤」における彼の思想はシンプルだ。それは「『と』の力」。そして「との力」と相反するのが「かの力」だ。「か」とは「or」のことで、右か左か、上か下か……。物事を前に進める時に区別し、選別することで効率性を高めることができる。けれども、「かの力」だけでは2つのものを比較して選別するだけにすぎない。すなわち、そこに創造性はない。そこで「との力」だ。
「渋沢栄一の思想は『黒か白』じゃなくて、『黒と白』。コロナ禍で健康か経済かと言われていますが、健康と経済の両方を成立させないといけない。これが思想の核です」と語るのは栄一の玄孫の渋澤健氏。
“論語と算盤”はまさに典型例であり、たとえば仕事の上で算盤感情を後回しにして道徳を重視する、というようにどちらかに優劣をつけるのではなく、一緒に進めようということだ。ただ、「との力」は一見すると矛盾して見えることもあり、なかなか答えが見出せないかもしれない。
鉄道業界に置き換えてみると、「利用者の利便性と鉄道会社の経営効率」がまさにそれだと言えるのではないだろうか。コロナ禍の対策として減便などで利用客の利便性を犠牲にして経営改善を図るべきか── 栄一なら「利用者の利便性と鉄道会社の経営効率どちらも両立させるべき」だと答えるだろう。「との力」の効果がはっきり目に見えるまでには時間がかかるだろう。それでも確かな未来を信じて、試行錯誤を続けていくべきだ。
【コラム】「進取の精神」で切り拓いた関西鉄道業界の新たなステージ
2017年、従来の特急車両に連結するかたちで導入がスタートした京阪電車の座席指定車両「プレミアムカー」。乗車券に加え、別途「プレミアムカー券」を購入することで乗車できる特別車両だ。かつて、首都圏でいうJRの普通列車グリーン車のような近距離移動をターゲットとした有料着席サービスは、関西では受け入れられないというのが通説だった。
だが京阪は「進取の精神」を体現し、人口減少や高齢化による厳しい経営環境の中で鉄道復権を目指すための象徴的な事業として、2013年ごろから導入に向けて構想をスタートしたのである。実際、利用者からも、「たとえ有料であっても確実に座って京都・大阪間の移動をゆったり楽しみたい」という声が多く寄せられていたという。そこで同社では、「着席保証」に加えて「快適な空間で上質な時間を過ごしてもらう」という付加価値をプラス。その想いがかたちになったのが、プレミアムカーだ。
座席数を40席に抑え、リクライニング可能な広いシートを採用するなど、居住性が高くゆとりのある贅沢なプライベート空間を創出しており、大型テーブルやコンセント、FREE Wi-Fiサービス、ラゲッジスペースなど観光・ビジネスのあらゆるニーズに応える設備も完備している。さらに空気清浄装置や防犯カメラの設置など見えない快適性にもこだわっているほか、専属のアテンダントによるきめ細かいサービスも提供される。鳴り物入りでスタートしたプレミアムカーは着実に利用客が増え、2021年には新たな車両が増備されることに。京阪間移動の新たな選択肢として、確かな地位を築くまでになったのである。コロナ禍でインバウンド需要や通勤利用者の減少といった逆風はあるが、「密集を避け、確実に座りたい」というニーズは今後も高まっていくに違いない。そうしたニーズに京阪電車が「進取の精神」でどう応えていくか、次なる一手に注目したい。