西野 朗 Akira Nishino

その道を極めた一流の人物にだけ、任に就く資格が与えられる「監督」というポジション。マネジメント能力の高さなど、数多の資質が求められる監督は、一体何を考えて指揮をとっているのか。監督ならではの流儀から学ぶべきものが、きっとあるはずだ──。

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2022年4月号

失点をしないためではなく、
チャンスを掴むためにボールを奪取。
選手たちの個性を活かし得点につなげる

2018年W杯ロシア大会、本戦まで残り約2カ月というタイミングで日本代表に就任した西野。当初多くのサポーターが日本代表のグループ予選敗退を予想していた。長くチームを支えてきた本田や岡崎、長友ら主力選手たちに衰えが見られ、「史上最弱」とまで呼ばれていたのだ。だが蓋を開けてみれば1勝1敗1分でベスト16進出という結果を残した。惜しくもベスト8とはならなかったが、強豪国と互角以上の戦いをみせた。そして、日本中のファンから西野監督の見事な手腕に称賛がおくられたのだ。

西野が初めて日本代表監督を務めたのは1991年、U-20の代表監督だった。1996年のアトランタ五輪ではU-23の監督を務め、グループ初戦ではブラジル代表相手に1-0で破り、「マイアミの奇跡」を起こしたのである。当時のブラジル代表は若手有望選手や2年前のアメリカW杯の優勝メンバーも加わっていた。「ブラジルに勝つことは不可能」といった厳しい声がある中で西野は現実的な決断を下した。「強豪国相手に真っ向勝負を挑むのは無理がある。ボールを奪うディフェンスにこだわり、失点をしないためではなく、数少ないチャンスを掴むために守るという意識を徹底させる」と。勝利のための作戦を遂行した日本は相手の守備のミスを突き、ゴールをもぎ取り勝利した。第2戦でナイジェリアには敗れたものの、第3戦ではハンガリーに勝利。だが、得失点差で惜しくもベスト8を逃したのだった。

 代表監督時代は、相手選手たちとのレベルを冷静に見極め、「攻めるための守り」を選択することが多かった西野だが、一方でクラブチームを率いていた時は攻撃的なサッカーを貫いた。代表監督から退いた後は柏レイソルの監督を務め、2002年にガンバ大阪の監督に就任し、輝かしい成績を残したのである。就任1年目からリーグ優勝争いを演じ、ガンバ大阪史上最高の年間3位の結果を残した。そして、2005年にはJ1初制覇を果たし、ガンバ大阪に初めてのタイトルをもたらしたのだ。その後も天皇杯、AFCチャンピオンズリーグ優勝など数々のタイトルを手にした。ポゼッションサッカーで点を取りにいく攻撃サッカーが代名詞となり、黄金時代を築き上げたガンバ大阪。しかし、西野は「世の中が思うほど、僕は攻撃サッカーがすべてだと思っていたわけではない」と語ったのだ。むしろディフェンスについて取り組むことが多かったという。実際、試合が始まると注目されるのは攻撃のことばかり。当時、遠藤保仁はじめ、タレントが中盤に揃っていたのは事実だ。中盤でのボール保持率を高めることで攻撃のチャンスを多く作り出す。「スムーズに攻撃に移行するために、いかにボールを奪うか」を強調していたのだが、いつもゴール数だけ注目されたのだった。だが、選手たちの個性を活かすサッカーは西野自身が考えていた部分でもあった。彼らの良さをより活かすために実現した『攻撃サッカー』──実現するにはボール奪取であったことには間違いない。ガンバ大阪で10年間チームを率いてきた西野は多くのサッカーファンの記憶に残ったはずだ。

その後、いくつかのクラブチームの監督を務め、2016年日本サッカー協会技術委員長に就任した西野。現在は異国の地、タイ代表兼U-23の監督に2019年に就任した。U-23アジア選手権史上初のベスト8入りを果たした手腕が高く評価され、2022年カタールW杯出場を目指す。今後の活躍にも期待が集まる。

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